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 今日で手を離れる備中国のふうせん本丸は、いつもと変わらない陽気に包まれていた。本丸内の季節は好きに変えることが出来るため、ふうせん本丸の刀剣男士の要望に応えて、いつも春を選択していた。薄らと桜の香りが鼻先をかすめる。

「今日が最後なんだよな」

 隣に座る加洲清光が寂しそうに呟いた。心なしか、彼の自慢の黒髪もいつもより輝きが曇って見える。

「長いことありがとう。あなたたちの本丸が最初だったから、私も今まで非常勤審神者を続けられたの」

 私もあなたたちと離れるのは寂しい、という言葉はぐっとこらえる。ここで未練を告げても、どうにもならない。私の手を離れて新たな審神者の手に渡る方が、彼らにとっても幸せなのだ。私は一時の代理なのだから、欲を出してはいけない。

「アンタはさあ」

 加洲清光が私を見つめながら呟く。

「本当にそれでいいわけ?」

 ずっと自分の本丸を持たず、誰かの陰で、誰にも頑張っていることを知られなくていいわけ?

 加洲清光はそう言いたいのだろう。しかし、言っても無駄だということ、既に私の意志は決まっていることを知っているから、言葉を濁して、でもどうしても言いたくて言ってしまったようだった。
 私は笑顔でただ頷いた。顔布のせいでほとんど表情は見えないだろうが、加洲清光は細かな機微を感じ取ってくれている。
 そっか、と加洲清光は諦めたような、歯痒いような、納得したような複雑な表情を浮かべた。

「あーあ、アンタとも今日でお別れかー」

 寂しさを払拭するかのように、わざと明るい声を出している。彼はどんな時でも、決して涙を見せることはない。私はそんな彼のあまのじゃくでいられる強さが好きであり、心配な部分でもある。

「加州さん、新しい審神者様が来たら、ちゃんと甘えるんだよ。きっと私よりもずっとしっかりとしているだろうし、きっと優しいし、それにずっと本丸にいるから」
「ほらぁ、またそんな風に自分を卑下する。俺は、アンタが代理でもここにいてくれて本当に良かったって思ってるんだから、俺のこの気持ちを否定しない」

 駄目な姉を叱るように、身だしなみに気を遣わない女の子に小言を言うように、加州清光は私のことを怒ってくれる。全ては私を思ってのことだというのが、言外から感じられる。それが私には何事にも代えがたいほど嬉しいことで、つい甘えてしまうのだった。

「アンタがそんなんじゃあ、今後のことが心配だよ。本当に他の本丸でもうまくやってんの?」
「大丈夫だよ。みんな優秀だから、こんな私でもなんとかできてるよ」
「だから、そうやって自分を下げないの!」

 いつもと変わりない会話。また二週間後、この場所でこの加州清光とこんな風に話せるのだと思ってしまう。それほどまでに染みついてしまった関係。前々から今日で終わると覚悟はしていたけれども、当日になっても実感などは一切湧かなかった。それは、ふうせん本丸の刀剣男士たちも同じようだった。現実感のない寂しさに苛まれはするものの、初めての感情に戸惑いを感じているようだった。
 私たちの関係は全ては契約の上にある。その関係に個人の感情は不要物だ。どれだけ審神者と刀剣男士が望んでも、時の政府が契約を切ればそこで関係が断ち切られる。それほどまでに細く脆い糸でしか繋がっていないのだ。
 別れる段階になって、いつも非常勤審神者という立場の危うさを感じる。私たち、非常勤審神者にはずっと永遠に続くであろう『いつも』は存在しない。

『いつかは必ず終わる』
『それは明日かもしれない』
『もしくは今日かもしれない』

 だが、人間は余程のことがなければ学習しない。何度別れを繰り返していても、心の奥底では『いつも』を期待してしまうのだ。私にとっては、十年も一緒に居たふうせん本丸がそうだった。これまでと同じように、これからもずっと、彼らとの『いつも』があるのだと、そう思ってしまっていた。
 私のことを一番に心配してくれているのに、決してそれを表に出して言おうとしない加州清光。
 彼との『いつも』が終わってしまう。なるべく『いつも』の雰囲気を壊さないようにと思っていたが、最後という状況が、『いつも』なら言わない言葉を紡いでしまう。

「加州さん、いつも私のことを一番に心配してくれてありがとう。私はこの本丸の加州さんが大好きだよ」
「そ。そりゃ、どーも」

 加州清光は顔を背け、素っ気なく答えるが、チラリと見える耳が赤い。存外照れ屋な加州清光に愛おしさがこみ上げてくる。もっと彼らと同じ空間、同じ時間を過ごしたいという願いが鎌首をもたげるが、その感情を押し込めるように唇を強く噛んだ。
 口の中に、じわり、と鉄の味が広がった。





「じゃあ、元気でなー」

 玄関先で見送る加州清光は泣き出すのを堪えて、必死に笑顔を作っている。形のいい唇が歪んだ弧を描いていた。

「加州さんたちも、元気でね」

 本当に最後の時が来てしまった。非常勤審神者になり十年。初めて受け持った本丸が手を離れることに、言いようのない寂寥感に襲われる。まるで、もう一人の私を失うような、大切な物を切り落とされる感覚。ぽっかりと体に穴が開いてしまったようだ。
 これ以上ここに居ては、未練しか残さない。
 後ろ髪を引かれる思いで、ゲートを開いた。

「俺、主のこと忘れないから!」

 初めてだった。加州清光が私のことを主と呼んだのは。
 思わず振り返ったが、ゲートの光で彼らの姿は見えず、そして間もなく、見慣れた玄関に景色が変わった。
 今ならば、またふうせん本丸に戻れる。本丸のIDは分かっているし、ピン止めも外していない。今ならば、今すぐならば、忘れ物をしたと言い訳もできる。もう一度、加州たちの顔を見たい。
 もくもくと未練は入道雲のように成長するが、私はそのまま靴を脱ぎ、通信端末を起動させた。
 今まで何度も行ってきた機械的な作業だ。本丸IDを削除し、疑似マップ上のピン止めを外す。たった二段階、それだけの簡単な作業で、十年もの時間をともに過ごしたふうせん本丸へはもう行けなくなる。

 【削除しますか?】

 ポップアップが最終確認を告げる。私は少し震える手に力を入れ、【はい】にカーソルを合わす。
 カチリ。
 なんとも軽い音で、儚く脆い繋がりは途絶えた。頬には一筋、涙が流れる。

「本当の主になれなくて、ごめんね」

 ふうせん本丸との関係をすべて絶って初めて、これまで口にできなかった思いを吐き出せた。あのまま本丸に戻ってしまえば、関係を絶つ覚悟も消えてなくなってしまいそうな気がした。だから、未練には目隠しをして、見えなかった振りをした。すると、入道雲だった未練は大雨を降らす積乱雲となり、今、私の目に涙という大雨を、心に痛みという雷を落としている。
 ふうせん本丸の彼らは私に本当の審神者になって欲しい、自分たちの主になって欲しいと常に言っていた。ある時は、本丸の担当役人にも直談判をしていたほどだ。しかし、私は彼らがそう願う度に、断っていた。私では、力不足だと。あなたたちを十分に活躍させられないと。
 その言葉に嘘はないが、決して本当のことでもない。
 私は、どう足掻いても本当の審神者になどなれない。
 ずっと言えなかった。言ってはいけないことだった。

 私には、秘密がある。



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