現代より愛を込めて


 忘れたくないと強く思うと、人はそれを忘れずに憶えておけるものだろうか。
 記憶として、出来事として憶えていなくとも、身体は覚えているのだろうか。
出会いや別れは人の世の常だ。
今まで何人の人と出会い、何人の人と別れてきたのか。
すべての人のことは思い出せないのは当然だ。
おそらく自分が思っている以上に多くの人と出会ってきたのだろう。
だが、これだけは確かだ。
私は彼のことを憶えていないが、覚えている。
この胸に不意に訪れる切なさが、私にそう訴えている。


現代より愛を込めて




 目を開けると、見慣れない白い天井が見えた。
 ここはどこだろう。私はなぜ寝ているのか。
 あたりを見回すと、部屋を仕切るカーテンと柔らかな光を通す窓が見えた。私を囲むどれもが白い。
 状況から把握するに、どうやらここは病院の一室らしいが、生憎入院するような心当りがない。
 おもむろに起き上がると、何かを引っ張る感覚がした。すると、1分も経たないうちに医者、看護師、そして両親が駆けつけてきた。

「血圧、体温、脈拍、SPO2、呼吸数、いずれも正常値です」

「名前を教えて下さい」

「今の季節は?」

「気分の悪いところはないですか?」

 医師と看護師は何かを確認するように、質問と計測を行った。まるで異常がないことを確認するかのように、丁寧に、丁寧に。
 その間、両親は心配そうに私のことを見つめていた。何か私は親に心配させることでもしたのだろうか。

「今日は2210年4月3日です。この1年の間のこと、何か覚えていますか?」

 医師は清潔そうな笑みを浮かべた。

「この1年は…」

 なぜだろう。何も忘れてはいないはずなのに、2209年の4月からの過ごした記憶が無い。大学を卒業したことまでは覚えているが、その後何をしてどう過ごしたのか1つも思い出せない。

「すみません、確認のため今の質問をしました。あなたは1年前に交通事故に遭い、今日までずっと眠ったままだったのです」

 医師は説明するように淡々と、事故に遭ったこと、この1年意識が戻らなかったこと、検査上では奇跡的にも器質的異常は見当たらず、今後数日間、各種検査を行った後、異常がなければ退院できることを告げた。  記憶が無いことに不安を感じつつも、それ以外に特に異常が見当たらないことに安堵した。  医師や看護師が退室したあと、両親が潤ませた目をしながら一言、「お帰り」と声をかけてきてくれた時には、訳もわからず涙が溢れてきた。記憶が無いはずなのに、やっと会えたと感じるのは、1年間もの間眠っていたからなのだろうか。



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 検査漬けの数日間を終え、明日退院できることを告げられた時には、記憶が無いことに多少不安は残りつつも、この1年の記憶が無いこと以外には全くの正常、あるいは平均以上だと褒められたことに上機嫌であり、本来の調子が戻って来つつあった。

「中庭の桜が綺麗に咲いているから、見に行ってはどうですか?」

と看護師さんの言葉もあり見に行った桜は、古くからこの地を護ってきたかのような立派な佇まいをしていた。霞んだ青空に映えるような薄い桃色の花が隙間を埋めるように、一斉に開花している様子は、正に圧巻の一言に尽きる。風が吹いて舞う花弁も、春を祝福しているかのように軽やかだった。

『桜が咲いたら、夜桜でも見ながら酒でも飲もうか』

 ふと聞こえた声にあたりを見回すも、ここにいるのは私一人のみ。
 聞き覚えはないが、とても安心する、そしてとても切なくなるような男の人の声。
 なぜだろう。私は何か大切な忘れ物をしている気がした。それは、とても大切で、もう二度と手に入れることは叶わないような、そんな予感がした。
 私は小さく頭を振ると、今の思いを忘れるように、早足で病室へ戻ることにした。


 その日の夜は眠れなかった。
 遠足前の子供じゃあるまいし、家に帰れるくらいで眠れないなんて、と思ってみたが、口から溢れるのはため息ばかりだ。
 消灯後の病室にささやかに降り注ぐ月光を見るたびに、知らない誰かのことが脳裏をよぎり、それに合わせて胸が切なく疼くのだった。なぜなのかは自分でも分からないが、確かなことは、昼間に空耳を聞いた時から異変を感じ始めたということだ。理由のない切なさに身が焦れる思いをしながら、次第にぬかるみに落ちていくように意識は沈んでいった。





1年前

 審神者という職業になってほしい、と頼まれた時、思わず気の抜けた声を出してしまった。
 この春から新社会人として働いていく期待がいとも簡単に砕かれるとは思ってもみなかった。

「突然で申し訳ありませんが、審神者になり刀剣男士とともに歴史修正主義者と戦ってください」

 審神者って何?刀剣男士って?歴史修正主義者?戦うってどういうこと?  思考がついていかない私をよそに、その政府の役人という人は、時間がないので、とか、行けばサポーターがいますので、とか、すでに刀剣はある程度の練度とともに揃っています、という言葉を並べ、終いには、

「では、明日から審神者として本丸に赴いていただきます」

と、知らぬ間に審神者になることが決定していた。
 政府から任命される審神者には、ある一定以上の霊力が必要であり、霊力のある人間は現代には数が少ないため基準を満たす人物は審神者業に従事することが求められている、と後から本丸にいたサポーターのこんのすけから聞いた。どうやら、健康診断の際に含まれる何かしらの検査が霊力を測定する検査を兼ね、基準値以上の人物は政府に連絡をするようになっているらしい。そして、審神者について、刀剣男士については完全な機密事項であるらしい。そのため、審神者にことを知っているのは政府関係者か審神者本人、そして審神者の両親だけだという。
審神者は一定の霊力の保持に加え、18歳以上――昔であれば成人ではなかったが、今では18歳で成人とみなされる――が条件としてある。なぜ、成人し1人の人間として行きていける力を持った審神者の両親にも、審神者について知らされるのか疑問に思い、こんのすけに興味本位で聞いてみたことがある。こんのすけは非常に気まずそうに、

「審神者というものは神意を伝える者のことを言います。刀剣男士は人の形をしているとはいえ、神の一員なのです。契約により刀剣男士は審神者に手を出すことは出来ないようになっていますが、相手は神なので何かの拍子に、その、危害を加えられる可能性が出てくるわけなのです。そのため、審神者の両親や両親に当たる保護者には、審神者になる危険性や審神者に及ぶ可能性についての説明が必要になっているのです」

 つまり、殉職したまま帰ってこれない可能性も無きにしもあらず、ということらしい。それに加えて、身体・精神面に何らかの問題が起こったり、身内に不幸が訪れない限りは現世に帰ることもままならないらしい。しかし、その分給料は良く、審神者を辞めた後でも各種サービスがあるらしく、ハイリスク・ハイリターンの職場だということは理解できた。

 本丸は緑豊かな自然の中に悠然と居を構えていた。
 刀剣については一切の知識もなく、政府から与えられた仕事ができる気はしないが、諦めにも似た気持ちで、本丸の戸をくぐった。

「わあー、あたらしいあるじさまですね!」

 目の前には狩衣のような衣服を身にまとった少年や似た系統の服を着た少年たちが笑顔で出迎えてくれていた。

「ようこそ、主君」

 彼らはみな一様に顔を輝かせ、我先にと私に飛びついてきた。私は間違って保育所に来てしまったのだろうか?

「弟達が世話をかけますね」

 本丸の奥から、少年たちと似た服を着た年上の少年が苦笑しながらやってきた。隣には白髪の少年もいる。

「主が困ってるだろー、一兄が来たらどやされるぞー」

 すると、少年たちは口々に、一兄はまだいないのにー、や、一兄は怒らないもん、と言いながら私の手を引き、本丸の中へと導いてくれた。
 神の一員、と聞いていたためどんな恐ろしいものが待っているのか、と不安に思っていたのが、彼らのお陰で少しほぐれたような気がする。
 連れて来られた一室は、中庭が一望できる大きな座敷だった。そして中には、案内してくれた少年たちよりも大きな、青年や男性、と呼んだほうがいいくらいの姿をした人達が待っていた。

「ようこそ、新しい主。俺達の本丸に来てくれてありがとう。俺は一番の古株で加州清光」

 紅が印象的な青年――加州清光――の挨拶を皮切りに、刀剣男士たちの自己紹介が始まった。どの刀剣男士も皆一様に個性が強かったが、雰囲気は柔らかく、私の前任の審神者が彼らを大切にしていたことが伺われた。
 本丸に来る前に、現時点でどれくらいの数の刀剣があるのか一応把握だけしておいた。その知識と照らし合わせると、この本丸は短刀・脇差・打刀はレアと言われるもの以外はある程度揃っている様子だった。太刀は燭台切光忠さんとなぜかレアと噂の鶴丸国永さんがおり、大太刀・槍・薙刀はいなかった。
 彼らはまるで全員が兄弟かのように仲が良く、新参者である私にも親切で、なんとかやっていけそう、とようやく覚悟が出来たのだった。



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 審神者の仕事に慣れ始め、一人一人の刀剣男士と話す余裕が出てきたのは夏の日が痛くなりそうな頃だった。
 相変わらず刀剣男士は増えないが、その分各自の練度はそこそこあり、安心して出陣や遠征を見送れるようになっていた。
 短刀たちは子供のように無邪気で元気がよく、掃除や洗濯といった雑用も手伝ってくれる。聞けば、みな名だたる武将の短刀だったという。でも、私と一緒に何かをすることが楽しい、と積極的に手伝ってくれた。こんな無邪気な子供が神様だとはまだ信じられないが、私のことを「大好き」と言ってくれる彼らのことは私も愛おしく感じていた。

 脇差・打刀・太刀は主に出陣で成果を上げてくれており、政府からの任務も彼らのお陰で上々といった出来だ。怪我をして帰ってくることも多いが、文句も言わず手伝いもこなしてくれる心優しい人たちだ。
 最初は不本意で始めた審神者業だったが、4ヶ月が経とうとした今、やってよかったと心から思えていた。
 ある日のことだ。1日の日課や任務も終わり、気が付くとすでに夜も更けていた。縁側に出て空を見上げると、見たこともないような数の星がきらめく満天の星空があった。
 思わず寝転び宇宙に手を伸ばす。これだけの数の星があれば1つぐらい掴めそうな勢いだ。

「随分ロマンチックことをするんだね」

 慌てて起き上がると、髪を解き、白っぽい浴衣を着流したにっかり青江さんが庭に立っていた。

「いいよ、そのままで。今は休む時間だ」

 そう言うと彼は私の隣に腰を下ろした。私より長くきれいな髪が、夜風にさらされ肩を滑る。

「僕も、またこの世に呼び出されるまで、落ち着いて星を見たことがなかったんだ」

 そう語りだした彼の横顔は人とは思えないほど美しかった。
 思い返せば、にっかり青江さんとは他の刀剣男士に比べ話した記憶が少ない。事務的な会話くらいしかしたことがないはずだ。
 彼はうなずきを求めるのでもなく、ただ独り言のように、星を見上げながら自身の生い立ちを語った。彼のことを何も知らない状態で聞くその話は、不思議なほどするり、と自分の中に入ってくる気がした。

「もう二度と、身を削られる思いはしたくないね」

 独り言の最後に私の方を向き、口元に笑みを浮かべた彼の瞳には、なぜか私は映っていない、そんな気がした。私も彼のかつての主のように、彼の身を削り常に手元に置いておこうとする、と思っているのだろうか。

「……私は、あなたの前の主のように、あなたの身を削るようなことはしません」

 何に対抗してこんなことを言ってしまったのだろうか、言い終わってからしまった、と自身の失言に気づいた。本人の考えを聞いたわけでもないのに、勝手な思い込みでムキになってしまった。
 しかし彼は、

「君は優しいね」

と柔らかい笑みを一つ浮かべただけで立ち去った。縁側を曲がるまで見えていた彼の背中に、どうしてだろう、私は目を離せなかった。そして、彼のことをもっと知りたい、そう思ってしまったのだった。
 次の日から、最近近侍にしていた骨喰さんから彼、にっかり青江さんに変えた。彼を身を預かる審神者として少しでも彼のことを知りたい、という気持ちからだったが、私利私欲のために動いている気がして多少のばつの悪さを感じた。
 彼の方も昨夜の話が原因だと悟っているのか、意味深な笑みを浮かべていた。

「よろしくね、主」

 昨夜なぜ彼が急に生い立ちを話してくれたのか真意はわからない。しかし、きっと何かしら理由があって私に話してくれたはずだ。これから彼が私の近侍でいる期間、彼の期待を裏切らないように、と強く心に決めた。



 万屋へ買い出しに行くとき、なぜか短刀たちににっかり青江さんをお供に連れていくように勧められた。なぜかと聞いても「いいから~」と乱ちゃんが背中を押してくるので、仕方なく、

「青江さん、万屋に買い出しに行くんですけど、行きますか?」

と、誘うことにした。彼は、もちろん、と答えてくれたが、この誘いをどう思っているのか、その表情から読み取ることはできなかった。
 万屋への道中も、彼は特に何か言葉を発することもなく、同じペースで歩く赤の他人同士、そんな距離感だった。
 世間一般で言われる「コミュ障」ほどコミュニケーションが苦手なわけではないが、あまり話したことのない男性と何を話せばいいのか分からない。無言はチクチクと刺すように痛いが、何か話題を出そうと思っても、いい話題が思い浮かばない。
 ああでもない、こうでもない、と話題を探しているうちに、万屋まで到着してしまった。本丸から大した距離がないのだから当たり前だ。万屋についたことで、ほっとしたと同時に、審神者としてうまく彼とコミュニケーションが取れなかったことが悔やまれた。

「青江さん、何か欲しいものがあれば、1つでしたらいいですよ」

 私は、いつも万屋についてきてくれる刀剣男士には、1つだけ、好きなものを買ってあげるようにしている。せっかく、ゆっくりできる時間を割いてまで付き合ってくれるのだから、これくらいはしたい。
 すると、

「何でもいいのかい?」

と聞いてきた。何でもいいですよ、と返すと、

「本当に何でもいいんだね?」

と怪しげな笑みを浮かべて聞いてきた。
 そういえば、彼は下ネタな意味で意味深な発言をすることを思い出した。すっかり失念していた。

「……常識の範囲内で考えてください」

 ジトっと睨みながら言うと、わかってるよ、とくすくすと笑いながら消えていった。
 本当に彼は、いったい何を考えているのだろう。分からないし、分かりたくもない。
 そんな悶々とした気持ちを抱えながら、必要なものをどんどんかごに入れていく。食料品は注文すれば直接本丸に届くが、シャンプーや歯ブラシ、掃除用具などの生活必需品や生活雑貨は直接万屋に出向かなければならない。種類も豊富で、個人の好みが分かれる物だからこそ、下手に政府も届けられないのだろう。というのは表向きの理由で、本来の目的は、本丸にこもって出てこない審神者を作らないようにするためだと言われている。私だって出なくてよければ本丸から出ない。だが、これでは、審神者を辞めたときに、人間として社会に適合できなくなるのも頷ける。
 主に加州くんと乱ちゃんから頼まれていたこの時期限定のシャンプー・コンディショナーセット、スキンケア用品、ヘアケア商品などの美容グッズ、後は予備の歯ブラシとタオルでかごはいっぱいになった。「主~」と来てくれるのは嬉しいけど、その度に頼まれる美容グッズはいかがなものか。まあ、ご相伴に預かれるから買ってしまうけれど。

「また加州達からかい?」

 いつの間にか背後に彼がいた。

「驚かさないでください!びっくりしたじゃないですか!」

 彼は、ごめんね、と笑いながら言うと、かごに何かを入れた。それは、彼の外見や雰囲気からは想像もつかない、かわいいパッケージデザインのハンドクリームだった。なぜこれを、と思い背後の彼を見上げようとしたが、既にそこに彼の姿はなく、万屋の暖簾がゆらゆらと揺れていた。
 万屋で購入したものは直接本丸まで送られる仕組みになっている。しかし、私は青江さんの選んだハンドクリームを手に取った。どうしても直接渡したいと思った。  店を出ると、彼は川縁の柳のそばにいた。秋の訪れを感じさせる少し冷たい風が柳の枝と、彼の長い髪を揺らす。まるで一枚の絵のようにその光景は美しく、胸が締め付けられるような切なさを感じた。彼らはこの世界の中でしか生きられない。これまでの世も、今の世も、人に使役されるだけの存在として生きている。いや、果たして「生きる」という言葉があてはまるのだろうか。
 彼の背中からは、諦めにも似た哀愁が感じられた。

(どうか、一人で違う場所に身を置かないで)

 私の考えすぎなのかもしれない。でも、あの晩の彼の寂しそうな笑顔が蘇り、放っておくことなどできなかった。

「青江さん、帰りましょう」

 さも、今出てきましたとばかりに声をかけると、ああ、と私の隣に帰ってきてくれた。
 持っていたハンドクリームを渡す。

「意外でした」

 そう言おうと思ったが、声が出なかった。彼がハンドクリームごと私の手を握ったのだった。
 思わず隣の彼を見上げると、いつもの怪しさが影をひそめた代わりに、静かなさざ波のようなほほえみがあった。

「僕の欲しいものは、君にあげたいものだよ」

 いきなり彼は何を言うのだろうか。今まで経験してこなかったことに、私は声も出せず頷くしかできなかった。彼は固まってしまった私をよそに、私の袖にハンドクリーム入れると、するり、と手を握って歩き出した。手袋越しに感じる温度は、少し冷たかった。

 その日以降、私はマメにハンドクリームをつけるようになった。日課や日々の雑務の合間に香るラベンダーは、一時的にでも私の心を落ち着かせてくれる。  また、青江さんとの関係も、少しずつ変わってきていた。
 他の刀剣男士との兼ね合いから近侍は外れてもらったが、それでも事務的な用件を含め、話す機会が格段に増えた。内容はとりとめのない、些細なことばかりだ。今日の夕飯は何か、明日は雨だろうか、遠征中に見かけた村の灯りがきれいだった、など小さなことばかりだ。しかし、その小さな積み重ねは、確実に私たちの関係を契約関係以上の強固なものへとしていくのに十分な量だった。
 少しずつ彼に触れることで理解したことがある。
 それは、本質的に私と彼は似ている、ということだ。彼も私も、不器用にしか生きられない。本心を口に出すこと、素直に感情を表現すること、私たちにとってはたったそれだけのことが難しい。
 似ているからこそ、最初は本心が読めない分、距離を置くしかなかった。しかし、お互いに一歩踏み出した今、読めない、見えないと思っていた本心は、ことばよりも速く、強く感じられる。
 私たちの間では、ことばは記号以上の意味を持つ必要がなかった。
 本丸から見える山の紅葉のように、これまで以上に私の世界は色づいて見えた。



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 秋の日は釣瓶落とし、とはよく言ったもので、一日が短く感じられる。それに伴ってか、あっという間に季節は冬に移り変わった。
 そろそろお正月の準備を考え始める師走の半ばのことだ。
 前日からの大雪が晴れ、庭にはひざ上まで積もった雪が、太陽に照らされてきらきらと輝いていた。
 本来であれば通常任務の今日だったが、短刀たちの目の輝きを見ると、急きょ休みにする以外の選択肢は残されていなかった。

「あるじさまー!ゆきがっせんしましょー!」

「あ、おいっ、投げんなよ、安定」

 寒さを物ともせず遊びまわる彼らを見ると、自然に笑みが浮かぶ。誘ってくる短刀たちをなんとかかわしながら、私は裏庭の隅にある大きな桜の木の下に来た。さすがに裏庭にまでは誰も来た形跡はなく、新雪に私の足跡だけが残されていく。
 この本丸に赴任してから、毎日のように朝、この桜の木に祈りを捧げることが日課となっている。霊験あらたかな代物ではないが、一つのけじめだ。
 なにより、私はこの場所が好きだ。この木は遥かなる時間の中、悠然とたたずみそこで生きた多くの人の行き先を見届けてきた。ただの木かもしれないが、私よりも長い年月を生きているこの木のそばにいると、心が洗われる気がした。
 遠くで聞こえる声に耳を傾けながら、いつものように手を幹に沿わせ、目を閉じた。

 今日は一段と冷えますが、おかげさまで、皆楽しく過ごせております。
 今日もよろしくお願いいたします。

 お祈りの形式はわからないが、この方法で何も災いが起こってないことから、間違った方法ではないだろうと思っている。
 さすがに冷えるため、手を離そうとしたとき、ふわり、とあたたかな何かに包まれた。

「冷たいね」

 手袋越しの彼の温度は、ほのかなぬくもりを伝える。
 背中にも彼の体温を感じ、優しさに包まれる。

「青江さんが来たから暖かくなりました」
 
 自然に笑みが浮かぶ。
 でも、君の手は冷たい、と彼は私の手をしっかりと握り込んだ。今までにない彼の行動に少し驚いたが、嫌ではない。
 むしろ、彼の方から距離を縮めてくれることが嬉しい。口には出していないが、お互いがお互いに好意を持っていることは、薄々感じていた。確認はしていないが、たぶん間違ってない。でも、勘違いだったら恥ずかしいなぁ…。
 そう想像し、思わず出てしまった笑い声。それが合図となり、手は解放された。しかし、そのまま私の肩へと置かれる。

「桜が咲いたら、夜桜でも見ながら酒でも飲もうか」

「いいですね。きっと、とてもきれいなんでしょう」

 そう遠くない、近い未来に思いをはせる。
 これまで何もなかった。だから、明日も、来週も、来月も、来年も、そしてもっと先の未来も変わらずやってくると思っていた。
 しかし、未来という希望は、かくも簡単に打ち砕かれる。



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 一月は行く、二月は逃げる、三月は去る。月日はあっという間に過ぎていく。
 暖かな春の気配を感じられるようになった頃。
 私にある一通の手紙が届いた。
 差出人は、“審神者健康管理センター”、そして“審神者登用課”。
 覚えのないことに不安を覚えつつ開封すると、一枚の紙が私の運命を告げた。


  貴方は、定期検診の結果より、『霊力欠乏症候群』であると診断されました。
  このまま審神者として任務を行えば、貴方の生命が危ぶまれることとなります。
  よって、以下に指定した期日をもって、審神者を解任とします。

    解任日:二二一○年 三月 二○日
    通告日:二二一○年 三月 一五日


 この紙によると、五日後、私はこの本丸を去らなければいけないらしい。
 告げられた運命はただ、私の頭の中をぐるぐると回り続け、手に持った紙のかすかな重みだけが、これが現実であると告げていた。
 確かに、不調を感じることは増えていた。既定の時間よりも手入れに時間が掛かってしまう、刀装が失敗することが増えた。常に体がだるい。
 すべては、『霊力欠乏症候群』のためだったのか。
 不調の原因に納得するとともに、どうしようもない怒りと、そして寂しさが私を襲った。
 なんで私が。どうして。
 やり場のない嘆きは涙となって頬を伝う。
 こんのすけが心配そうに、膝に前足をのせる。
 その時だ。

「入るよ」

 青江さんの声が聞こえた。
 私は泣いていることを知られまい、と「今はダメです」と言おうとしたが、一足遅かった。
 涙で歪んだ視界に、驚いた表情を浮かべた青江さんが見える。
 どうしたんだい、という彼の声も遠くに聞こえる。

「私、もうここにいられなくなっちゃいました」

 少しでも明るく言おうとしても、嗚咽が混じる。笑顔を見せようとしても、顔がゆがむ。
 彼は机の上の紙に気づいたらしく、そちらを見た後、優しく抱きしめてくれた。触れた彼の暖かさに、涙は堰を切ったかのように流れ出し、頬を濡らす。
 ごめんなさい、ごめんなさい、と謝る言葉しか出てこない。彼は答えることはなかったが、私が落ち着くまでずっと側にいてくれた。

「ごめんなさい。夜桜を見る約束、守れそうにありません」

 ひとしきり泣き終えると、涙は自然に止まった。そして、最初に口をついた言葉は、近い未来の約束のことだった。
 一ヵ月も先のことじゃないのに、手の届かない未来。こんな些細な約束さえ守れない。そんな私が不甲斐なかった。そう思うと、自嘲した乾いた笑みが浮かぶ。

「不甲斐ない主でごめんなさい。また、皆さんに迷惑をかけてしまいますね。ああ、皆さんにお伝えしないといけませんね。そろそろお昼時ですから、その時にお伝えしましょうか」

 まるで他人事のようだ。自分のことを客観的に考えてしまえば、さっきまでの混乱が嘘のようにすべきことを考えられる。
 お手伝いしに行きましょうか、と腰を上げようとした時、腕を引かれた。

「君は、本当にそれでいいのかい?」

 ビー玉のようにきれいな彼の目は、私の本心を見透かしているようだった。

「君は、ここを去ることに未練はないのかい?」

 本当の私は冷静に考えることも、笑顔を浮かべることもできない。どうにもならないと分かっていても、泣き叫びたい。彼の前では私のすべてがさらけ出されてしまう。

「……本当は、もっとみんなと居たかった。もっとみんなの知らない面を知りたかった。たくさん楽しい時間を過ごしたかった。青江さんとの約束を守りたかった。もっとやりたいことがあった!でも、もうできない。私、霊力欠乏症候群みたいなんです。これから霊力が回復することもないから、もう二度と審神者に復帰することはないんです。もう二度と、会えない。そんな終わり方、嫌だ……」

 止まったと思った涙があふれ出してくる。

「そんなに泣いてしまっては、溺れてしまうよ」

 私の涙をぬぐう彼の優しい手つきが、さらに私の涙を誘う。一向に泣き止まない私に呆れることもなく、青江さんはただ優しく、静かに身を委ねさせてくれた。



「というわけで、私は五日後にはここを離れることになりました。ごめんね、一年しか一緒にいられなくて」

 昼餉の時にみんなに告げた。泣きたい気持ちをこらえ、努めて明るく振る舞った。
 表情はそれぞれ異なるが、皆一様に悲しさ、寂しさを露わにしていた。
 こんなにも私のことを認めてくれていることが嬉しく、また同時に、こんなにも信頼している人たちを失うことがより辛く感じてしまった。
 重くなってしまった広間の空気を変えたのは、比喩ではない、まさに鶴の一声だった。

「あと五日あるじゃないか。主との思い出を作ろう」

 そうだ、まだ五日ある。彼らにとって忘れられない思い出を作るには短いが十分な時間だ。
 そうと決まれば、その日のうちからたくさんの思い出作りが始まった。
 写真を撮る、買い物に行く、鬼ごっこをする、一緒にご飯を作る、庭でキャンプをする……。
 どれもがとても楽しかった。みんな、いつも以上に笑顔で、明るかった。でも、それは寂しさ、悲しさを隠すためだと誰もが知っていて、でも、だからこそ余計にはしゃいでいた。


 そして、最終日の夜。明日の朝で、私はもう審神者ではなくなってしまう。
 みんなが寝静まった後、縁側に出て夜空を眺めた。雲一つない空は、無数の綺羅星によって彩られている。あのうちの一つくらいには届きそうだ、と思わず手を伸ばした。

「随分ロマンチックなことをするんだね」

 私たちの関係が始まった、あの時と同じ言葉を紡ぐ彼がいた。

「青江さん、手を伸ばしたら一つくらい取れそうですね」

 握った手は空を掴む。手の平の中にきらめきはない。
 ここでの日々は私の手には残らない、空に浮かぶ星のようなものだった。

「ねえ、青江さん。私の前任のこと、覚えていますか?」

「ああ、覚えている。君よりもだいぶ年上の、物静かな人だったよ」

「じゃあ、私が来た日のことも覚えていますか?」

「覚えているよ。こんな子が戦に巻き込まれるとは、と思った」

「みんなで庭掃除をしたことは?」

「覚えているよ」

「じゃあ、」

……


 私は彼の中に、私という存在があることを確認するように、この一年間の出来事を、私がくる以前にあったであろうことを口にした。そのどれもに彼は「覚えている」と答え、さらには一言その時の思いを添える。

 ああ、私にとっては手にできないものだけれど、彼の中にはちゃんと残っているんだ。

 私は彼らにただ一つだけ伝えていないことがあった。
 『審神者ではなくなると、審神者の時の記憶を消される』という事項。
 いくら忘れたくなくても、審神者になる際にかけられた術式によって、記憶は消されてしまう。
 私はあと数時間で、審神者だったことを、刀剣男士たちと過ごしたことを、この一年の思い出を、そして、青江さんへの恋慕を、すべて忘れてしまう。
 けれど、私が審神者だったこと、私と過ごした時間を彼らは忘れない。例え、もう二度と彼らに会えなくても、確かに私がここにいたことの存在証明はある。
 だけど、ただ一つ、青江さんへの好意は、この世から完全に存在を消される。
 でも、それでいい。この永遠に叶うことのなくなる思いは、ここで消えるべきだ。

「青江さん、私はあなたと出会えてよかったです」

 青江さんへの思慕を押し込めると、ありきたりな言葉しか出てこなかった。
 これでいい。彼に余計なことを残したくない。

「君は」

 彼が言う。その声の距離は、今までよりも近かった。

「君は、ここでの記憶を忘れてしまうんだね」

 私の目から真実を読み取ろうとするように、彼の顔が近づく。
 時折見える右目が、隠していることを暴こうとしている。

「……なんで、そう思ったのですか」

「君は”忘れない”や”覚えておく”といったことを絶対に口にしなかった。審神者でなくなると知ったとき、あれだけ取り乱していたにも関わらず、一言もそんな言葉を聞かなかったからね、なんとなく察したよ」

「青江さんには隠し事ができませんね。その通りです。私は審神者だった記憶をすべて消されてしまいます。でも、あなたたちは覚えているでしょう?それでいいの。私が確かにここにいたことを、誰かが覚えてくれているって、うれしいことです」

 彼らに秘密にしていた隠し事が一つ暴かれた。
 残すは、暴かれてはいけない隠し事。

「寂しいねえ。僕はこんなにも君に心を奪われているのに、君はそのことも忘れてしまうのかい?」

 手袋をまとわない、彼の手が私の頬をなでる。
 ひんやりとした彼の手は、触れたところに熱を生んだ。
 思わず本心を言ってしまいたい衝動に駆られる。
 好きです、と。離れたくないです、と。
 でも、それを口にすると、整理した気持ちがすべて崩れてしまう。
 だから、

「青江さん、ごめんなさい」


 彼はその一言だけで、すべてを分かってくれた。彼は両の手で私の顔を確かめるように触れると、一度だけ優しく抱きしめた。



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「これまで本当にありがとうございました。みんな元気でね」

 涙を浮かべる者、なんとか笑顔を浮かべようとする者、達者でな!と手を振る者、そして優しく微笑む青江さんを背中に、私はゲートをくぐった。



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 目を覚ますと、朝日が辺りを照らし始めていた。
 頬に伝う一筋の涙。胸に残る柔らかい痛み。
 私は何か夢を見ていたみたいだ。
 どんな夢かは覚えていない。でも、きっと、それは思い出せなくてもいいものだと、なぜかそう思った。覚えてはいなくても、今の私はとても満たされた気持ちだ。  きっと、とてもいい夢を、でも切ない夢を見たのだろう。
 開けた窓から、中庭の桜のかおりがかすかに入ってくる。
 私は胸いっぱいに春の香りを吸い込んだ。


その後、退院して一年遅れて入った会社の上司が、青江さんという掴みどころのない人で、惹かれていくのはまた別のお話。


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