#2
「ありがとうございましたー」
店から出て行く客を最後の客と勝手に判断して、店を閉めるための準備にとりかかる。午後八時を過ぎれば客足もぱったりと途絶え、レジ前に居ても暇なだけなので、いつも早めに掃除を始めている。だが、それができるのはシフトが一人のときか、もしくはバイトかパートが入っているときだけであって、社員や店長が入っているときは閉店の午後九時から始めるので帰る時間がいつもより一時間ほど遅くなる。
今日のシフトは一人だったので、早々とバックヤードから箒とちり取りを持ってきた。人が五人立てば手狭に感じるぐらいの小さい店のため、そこまで大掛かりな掃除は必要ない。
売れ残ったパンを確認し、廃棄のパンは持って帰るため袋に入れる。それ以外のパンは上からカバーや袋に包む。
何も考えずに、淡々と作業ができるようになったのはいつだろうか。もともと、ある程度は要領が良いため、出された仕事もやすやすと覚えてしまう。その代わり、それ以上の上達は見せない。
などと考えることもなく、黙々と掃除をする丸井の頭の中では昨日の出来事がしきりに渦巻いていた。
「久し振りだね」
何年ぶりの再会だろう、と目の前の彼を見て丸井はただ、会っていなかった年数を数えていた。
四年だ。
四年間、連絡も取らず、大袈裟に言えば安否さえ分からなかった彼が今、目の前にいる。
だというのに、丸井の中に感動という心の動きは微塵もなかった。
「あんま変わんねえな」
今さっき、落としてしまった鍵を拾う。ふと見えた足元は、スニーカーではなく、手入れが行き届いた革靴だった。
「そういうブン太は変わったね。大人っぽくなった」
「そりゃ、もう大学生だぜぃ?いつまでも子どもじゃねえって」
「それって暗に、中学生の時は子どもだった、って言ってるよ」
「四年も経てば雰囲気くらい変わるだろぃ」
そうだね、と幸村は笑った。その笑顔はあの時から変わらないきれいな笑顔だった。ただ、丸井には、あの時とは違い、一筋の曇のある笑顔に感じられた。
「で、なんで隣の部屋から出て来んだよぃ。今は空き部屋だったはずだけど」
「ああ、それはね……」
丸井はいつになく緊張していた。次の瞬間、幸村の口から出てくる言葉を聞くのが怖かった。
この四年間で吹っ切ったはずの思いが再発してしまうのが、ただ怖かった。
「実家から大学に通うのが思ったより辛くてね。後期のこのタイミングで下宿を始めたんだ」
「で、選んだのがこのアパートで、俺んちの隣ってことか」
「まあ、そういうことかな」
小首を傾げながら、彼は曖昧に微笑む。相当な身長がありながらもこのような動作が似合ってしまうところは、唯一、彼が中学生の時とは違うことを表していた。おそらく中学時代の幸村に、今のような動作は似合わなかっただろう。温和な笑みとは裏腹に、とても厳格な人物だった。おそらく、あの真田でさえ、幸村のようにストイックに生きることは出来なかったのではないかと思うぐらいには。
夏が終わってまだ一月と経っていないにもかかわらず彼の肌は、白く陶磁のように滑らかだ。蛍光灯の青白い光と相まって白く滲む様子が、また彼という存在を希薄にしているようだった。
「文学部哲学科西洋哲学専攻」
ふと彼が漏らした言葉。それは丸井の脳に届いて理解されるまでに数秒を要した。
「あ、ああ。この大学の文学部なんだな。俺は農学部食物バイオ学科」
「食べ物関係なんだね。てっきり調理の方面に進んでいるのかと思ったよ。教育学部家庭科教育とかね」
クスクス笑うその響きも、笑うときに口元に手を持っていくその癖も、何もかもが丸井の中の幸村像を確固たるものへと形作っていた。
まだ、好きなのかもしれない。
認めたくないが、目の前の彼を見ていると感じるこの焦燥感は、丸井に四年前を彷彿とさせた。そう感じるやいなや、胸の下に少し重い石の落ちる感覚とうずくまりたい衝動に駆られた。
「今バイト帰り?」
「そう。駅前のパン屋」
丸井の提げている袋のロゴを見てか、物珍しそうに尋ねてくる。ふうん、と幸村は軽く相槌を打つと何度も頷く動作を繰り返した。この動作が何を意味しているのかわからない丸井ではない。
「廃棄のだから適当なやつしかねえけど、気に入ったのあったら持ってっていいぜぃ」
「いいのかい?ありがとう」
花が咲いたような満面の笑みを浮かべ、丸井が広げた袋の中を覗き込む。無邪気な様子で物色する彼の様子を見ることもなく、丸井はただ顔を逸らしていた。
赤みがかった髪色に紛れるくらい耳が赤くなっている。つい先程幸村が見せた笑顔が予想以上に丸井を動揺させていた。
「これとこれをもらうよ。ありがとう」
「一人で全部食べるわけにもいかねえし、ちょうど良かった。助かったわ」
「じゃあ、そろそろお暇するよ。おやすみ」
「じゃあな」
お互い、それぞれの部屋のドアを開ける。そこから先はもうお互いを感じることのできない個人空間だ。ドアの閉まる音とともに丸井はその場にうずくまる。吐き出した盛大なため息は、生暖かさを伴って膝に降りかかった。
このため息と一緒にこの思いも吐き出せればどれほどいいことだろう。
丸井は強く頭を抱え込んだ。
ペダルを踏み込む力と比例するように、自転車は徐々にスピードを増していく。
正直なところ、丸井は家に帰ることが少し怖かった。怖いというより、気の迷いが生じていた。
お互い個人空間とはいえ、五十センチにも満たない薄い板でただ区切られた空間だ。これまでは学校という限られた空間でしか接触する機会はなかった。いうなれば、プライベートで会ったことなど一度もなかった。それが、急に隣の部屋という個人とも共同ともいえない空間に放り込まれてしまった。下手をすると、彼の生活が分かってしまう。
丸井はそれがただ怖かった。
覗き見しているようで、罪悪感だけが募っていく。
部屋まで続く階段を一段一段昇る度、妙な現実感が丸井を包んでいく。それは、部屋に近づくに従って、丸井の両肩に重くのしかかってくる。
ありえないとはわかっていても、部屋に入る前にまた幸村が出てくるのではないか、と淡い期待をせずにはいられない。
今日何度目のため息だろう。ため息を吐くと幸せが逃げていく、とよく言われるが、今が幸せかどうかもわからないのでは逃げられたかどうかもわからない。ただ、降って湧いた存外な事実を自分の中でどのように処理をすればいいのか戸惑うばかりだ。大声を出しながら髪の毛を掻き毟りたい。そう思いたくなるくらいむしゃくしゃしていた。
混線する思いとは裏腹に、まっすぐと部屋の前まで来てしまった。幸村はいない。淡い期待が打ち砕かれた悲しさと、彼がいない安堵感が入り混じり、なんとも不思議な気持ちだ。また一つ、ため息を吐き、ドアに手をかけようとした時、隣の、幸村の部屋から食器がぶつかる独特の高い音が響いた。その音に不意に緊張してしまい、一瞬手が止まったが、気を取り直して手をかけ直す。
この状況に慣れるまで、どこにいても落ち着かないという現実を知ってしまい、扉が閉まると文字通り、頭を抱えてしまった。
生活音というものは意外と響くもので、食器を洗う音や洗濯機をかける音、掃除機、トイレを流す音というものは全部隣室に筒抜けだといっても過言ではない。家族用のマンションなら話は別だろうが、学生用のアパートではそう考えてもいい。もしかすると、ベットに入る衣擦れの音も、深夜だと聞こえるかもしれない。
今まで、両隣がいなかった丸井にとって、意外な生活音の大きさには戸惑った。
幸村が越してきた最初の一週間は、些細な物音にいちいち驚いていた。しかし、一ヶ月が経った今、前ほどは気にすることはなくなった。要は、無視をすればいいだけの話だ。
隣が幸村でなかったら、という前提がつくが。
前よりは多少気にしなくはなったが、今度はその物音で彼が今何をやっているのか、ということを考えないようにする努力が必要となった。勝手に彼の私生活を覗き見ているようでバツが悪い。
彼に対してなのか、それとも自分に対しての言い訳か。しかし、確実にその考えが丸井の首を絞めていっていた。
「最近、お前やつれたな」
友人からの言葉に、思わず頬に手を伸ばす。確かに、学校が始まった九月下旬に比べ、頬の肉が落ちた気がする。食べ物の好みのせいか、少々太りやすく、すぐ顔は丸くなりやすかったのに、やつれた、言われたのは今回が初めてだ。
「レポートとバイトが忙しいし。それに十一月になって急に寒くなっただろぃ?そのせいでちょっと風邪を引いちまってよぃ。まあ、俺は天才だから風邪を引いたけど、な」
「年中健康体の俺へのあてつけか、優等生。バカって言いたいのか?だけど、バイトも程々にな」
「サンキュ」
冗談を冗談で受け流してくれる友人に感謝をしながら、丸井は軽く微笑んだ。
ジョークの一部分だけだとしても、優等生、と言われるぐらい丸井の成績は良い。中学時代には想像もつかないくらいだ。しかし、それとは引き換えに、多くのものを失った気がしてならない。
一体、どの選択が正しかったのだろうか。今でもよく考えてしまう。
「あ、悪りい。彼女んとこ行かねえと」
「ああ、そう。じゃあな」
そう言いながら走り去る友人の背中を見送る。つい先日付き合い始めたらしい。まだ一ヶ月にも満たないくらいみたいだ。
そんな幸せそうな友人を見ると、彼を汚している気がしてならない。何が幸せなのかは個人の自由だが、かたや普通一般ではあるが、祝福される幸せを掴んだ友人と、かたや報われもしない想いを断ち切れず、悩み続ける自分。彼は最高の友人ではあるが、丸井とは対局に位置する人間だ。
友人が幸せそうな顔をする度、幸せだと感じる反面、疎ましく思ってしまう自分がいた。
昔のような人間味のある暖かさを忘れ、どこか冷めた冷たい人間になった自分が嫌いだった。
両手で包んだ紙コップから伝わるホットココアの熱は、思いの外熱く、手を離してしまいそうになるほどだった。