#1
一日の最後に長い階段を昇りたい物好きはそういないだろう。
白いビニール袋を片手に、肩からは教科書で膨らんだ鞄を提げ、丸井ブン太は息を切らしながらアパートの五階まで階段で昇っていた。
九月も終盤に差し掛かったとはいえ、少し体を動かすだけで、すぐに汗ばんでしまう。汗のせいでまとわりつくTシャツが鬱陶しい。一段一段を気力で踏みしめ、やっとの思いで辿り着いた玄関に思わず座り込んでしまった。時間は午後十時二十五分を少しばかり過ぎていた。
丸井は大学入学を期に、一人暮らしを始めた。
実家からそう遠くない場所に大学はあるけれども、親に束縛されず生活したいという反抗心の現れか、強く一人暮らしを希望した。
始めこそは通学費より生活費の方が金がかかる、と親に反対されたが、国立大学に受かったこと、生活費はバイトと奨学金で賄うことを持ち出すと、渋々ではあるが承諾してくれた。
月五万円の奨学金とバイト代の三万円。これだけの額があれば裕福ではないにしろ、余裕をもった生活を送ることはできる。
しかし、彼の部屋は必要最低限のものしか置いていない殺風景なものだった。余裕などは感じられない。
「はぁ……」
一人暮らし専用のアパートでは、吐き出した溜め息も響くことなく宙を漂う。未だ眼前にさ迷っていそうな溜め息を感じながら、重い腰を上げた。昼間から動かない、停滞した空気をかき混ぜるため、窓を開ける。床の上に腰を落ち着け、持っていた白いビニール袋を無造作に漁る。バイト先のパン屋でもらった廃棄のパンが夕食代わりだ。
バイトを始めたのは大学に入ってすぐ、四月のことだ。たまたま知り合った先輩に勧められたパン屋はアパートからはやや遠いが、シフトも時給も希望に叶っていたため即決だった。
それに、実家に帰らない口実作りにはもってこいだった。
栄養不足かつ偏りが大きいということは百も承知だが、背に腹は変えられない。乾燥した口に水分を吸収するパンとは何とも相性が悪いが、もう慣れたことだ。最後の一口を口に放り込むと、パンを包んでいた袋をゴミ箱に捨て、明日が提出期限のレポートに手をつけるためパソコンに向かった。
*******************************************************************************
「丸井、レポート提出したか?」
友人の声に丸井はVサインだけで答えた。
「うわ、マジかよ。お前だけはやってないと信じてたのに……」
「やらねえお前が悪い。まあ、教授にメールで送ったのは今日の朝六時だけどな」
大きな欠伸を隠そうともしない丸井の様子を見て、
「貫徹かよ。眠そうだな」
「二時間くらいは寝たし、今日の講義は寝ても構わねえだろぃ。基礎教養とかいって、所詮高校でやったことの復習だしよぃ」
「それもそうだけど、基礎教養を所詮といって楽勝なのはお前だけだっつの」
「どんだけ真面目じゃなかったんだよぃ。普通だったらできるだろぃ」
友人は呆れたように首を振り、丸井は机に伏した。
すぐさま猛烈な眠気が襲い、夢の中に落ちていった。
授業始まるぞ、という友人の声も虚しく、講義が終わるまでの九十分丸井は微動だにせず眠り続けた。
「おい、起きろ。授業終わったぞ」
「……ん、マジか。じゃあ、昼?」
「正解。食堂行くか?」
「そう…だな。今日昼飯ねぇし」
授業が終わったことで閑散とし始めた大講義室を背にして、人で溢れ返る食堂へと向かった。食堂への道程の途中でも、眠たそうに丸井は欠伸をする。欠伸のしすぎか、目尻には涙が溜まっていた。
「ブン太君、眠そう」
「ん、まあね」
時折女子に話し掛けられるが、曖昧な返事を返す。
今はそんな気分ではないのか、それとも興味が薄いだけなのかはわからないが、女子に適当なあしらいをする姿は隣の友人にとっては不可解かつ羨ましいものだった。
「丸井、お前さあ、女の子とそんな適当に接してるといつまでも彼女できねえぞ。というか、なんでそんなお前がモテんだよ」
「知らね。つか、彼女とかいらねえし。あんまそういうの興味ねえしよぃ」
「うわ、贅沢な悩みだな。俺もお前みたいに女の子に声掛けられてえよ」
自分の人生を悲惨なもののように嘆く友人をよそに、
「……お前も十分モテてると思うけど?」
客観的な見解を述べてみたが、隣の友人にはそれを聞き取る余裕はなかったらしい。丸井は顔を背け、大きな欠伸をもう一つした。
食堂はもうすぐそこに迫っていた。
このキャンパス内にどれくらいの人数がいるのだろうか。
昼時になると、降って湧いたような人数が食堂に集まる。この食堂以外にもカフェテリアや購買はあるというのに、身動きとれないほど多くの人間が同じ場所に集まるのをふと疑問に思った丸井だったが、昼休みということに気づいて納得した。まだ完全に覚醒していないようだ。
「お前、何食べんの?」
「俺、B定食。丸井は?ついでに買っとくよ」
「まじで?奢ってくれんの?俺はオムライス」
「奢らねえよ。あとで払ってもらうからな」
「ケチ」
友人はどうやら丸井に席取りをお願いしたいらしい。
そう察した丸井は券売機前の列に友人を残し、空いている席がないかと周りを見渡すが、生憎、外のテラスしか空いていなかった。
友人に外のテラスで待っている旨を伝えると、眠たそうな欠伸を一つ、隠そうともせずにテラスへと向かった。
(来週から十月だぜぃ…。なんだよ、この気温)
地球温暖化のせいか、それともガラス越しに見えるカップルが熱々なせいか、うだるような気温にうんざりしながら机に伏した。木製のテーブルは少し熱を帯びており心地よさ半分、さらに暑い半分だった。
そのまま寝てしまおうか、と目を閉じだ時、
「飯持ってきたぞ」
「ん、サンキュ」
丁度、友人が昼飯を持ってきた。
伏せていた体を起こし、持ってきてくれたオムライスに目を落とす。本格的な洋食屋レベルとは言わないが、この学食の料理のレベルは高い。上に掛かった卵はちょうどいい半熟具合で、食欲をそそる。
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
お互い食べることに集中しているせいか会話はない。いつものことなので特に気にすることもないが、端から見たらいい年した男二人が目の前の食べ物にがっついているようでしかないだろう。
食べることに対し、人一倍の情熱を捧げてきた丸井だからこそ、美味しいものを食べている時に邪魔はされたくない。
黙々と二人は食事を口に運ぶ。
それから数分後、早くも食べ終わった丸井は次の授業のために鞄から教科書を取り出した。
『西洋美術史』
そう題された教科書の名の通り、丸井の三限目は西洋美術史だ。
「お前も変だよな。俺らの学科じゃ誰も取らねえぞ、西洋美術史なんか」
丸井達が所属するのは、農学部食物バイオ学科。美術などとは一切の関係のない学科だ。
「俺が好きだからいいんだよぃ。……これ以外に取りたい講義も無かったし」
「俺と同じ心理学取ればよかったじゃん。前期で終わったし、面倒なレポートもテストもなかったし」
「だからお前は基礎教養の点数が低いんだろぃ。勉強せずにいい点なんか取れねえよ」
そう言いながら、教科書を広げる。授業が始まってまだ一週間しか経っていないにも関わらず、その教科書には既に開き癖がついていた。丸井はその開き癖のあるページを眺める。
「お前、ルノワール好きなのか?」
そのページを見た友人が訊いてきた。
丸井は眩しそうに目を細め、少し口元に微笑を湛えた。
「まあ、好きだけど、俺はどちらかと言えばアンディ・ウォーホルが好きだな。ルネサンスとか印象派よりも、現代美術の方がしっくりくる」
「だけど、ルノワールって言ったら印象派じゃねえか」
そう友人が指摘すると、悲しそうに、しかし慈しむように目線を下に投げる。
「中学時代の俺の好きだった人が好きだったんだよぃ。ずっとルノワールの画集が欲しいって言ってたから」
丸井の脳裏に好きだった人の影が浮かぶ。
いつも余裕と優しさを感じさせる笑みを浮かべ、透き通るような声で叱咤激励してくれた。
その人の思い浮かべていると、自然に頬が緩んでいたらしい。
「今でも好きなんだな、その人のこと。お前がそう言うくらいだからよっぽどいい人だったんだろう」
「いい人だったよぃ。俺が今ここに居られるのも、間接的にはあいつのおかげだし。勉強を頑張ったのだって、あいつに少しでも追いつきたかったからだしよぃ」
「お前……、恥ずかしげもなくよくそんなこと言えるな。確かに俺はその人のこと知らねえけどよ、そんないい笑顔で自慢されたら、俺、お前の友人としての自信なくすよ」
「あ、悪りぃ悪りぃ。お前はほんとにいい友達だよ。出会えてよかったと思ってる」
「……またそんな恥ずかしいことを堂々と」
お互いに顔を見合わせ笑うこの瞬間は、何物にも代えがたいものだった。
友人、という枠がどれほど安心感を与えてくれるのか、丸井は目の前の友人に出会って始めた知った。
恋愛対象でありながら、友人として付き合わなければならなかったあの中学時代の苦悩を吹き飛ばしてくれる、打算など一切ない関係性が心地よかった。
「じゃ、そろそろ行くわ」
丸井はテーブルに昼飯代を置くと、講義がある教室へと向かった。
丸井が西洋美術史をとったのには理由がある。
ルノワールが好きだったあの人がもし同じ大学に来ていたら会えるかもしれない、と考えたからだ。高校さえ違っていたのに、大学で再会するなど確率はないに等しい。
だが、それでも希望を捨てきれなかった。
同じ大学に来て、西洋美術史を選択するのではないのか、という限りなく透明に近い淡い期待を持っていた。
教室に入っても、まだ誰一人として来ていない。
それもそのはず、この授業は丸井しか取っていなかったからだ。
無意味に広い教室の真ん中に位置取り、また教科書を広げる。
あの人は今、何をやっているんだろうか。
そう考える丸井の頭の上で、授業を知らせるチャイムが響いた。
「あっつー。これで秋とか、マジ信じられねえ」
バイトを終え、帰宅する丸井。いくら夜とはいっても、自転車を漕ぐだけで汗ばんでくるこの熱気に秋の気配は感じられない。
クーラーのついた家に早く帰りたいが、早く漕げば漕ぐほど汗をかくのは目に見えている。かといって、ゆっくりダラダラと漕いで帰っても汗は出る。
急いで帰ろうかどうしようか、と考えながら漕いでいるうちにアパートへとついた。
駐輪場に自転車を置こうとしたが、気のせいか、いつもより台数が多い気がする。だが、特に気に留めることもなく、一台分の自転車を置けるスペースを作り、玄関ホールを抜け部屋のある五階まで伸びる階段を上がる。
疲れた体には階段は辛い。
しかし、中学・高校時代に鍛えた脚力のお陰か、脚は辛くないが息は上がる。
五階まで昇ったことで乱れた呼吸を整えながら、鍵を探した。大事なものは早く探したいときに限って見つからないものだ。薄暗い照明の中、半ば手探りで鍵を探し当てる。
やっと涼しい部屋に避難できる、と思い鍵穴に鍵をさしこもうとした。
不意に隣の部屋の扉が開く。
確か、両隣は誰も住んでいなかったはずだ。
誰が出てくるのだろう、と思うことなく反射で音のした方向に目を向けた。
一瞬の空白の後、そこには丸井の落とした鍵がコンクリートに反響して響く、高い音しかなかった。
「やあ、ブン太。久し振りだね」
「ゆ、幸村君……?」
目の前には、あの時と変わらない笑顔のあの人がいた。