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 山の端が紫から橙色へと綺麗なグラデーションを映し出す頃。辺りを重い闇がしっとりと覆い始めた社で祭儀は始まった。
 緑間は舞台から離れた社の隅に居た。写真撮影は禁止されたため、事細かに記録するためにその手には一冊のノートとペンが。そして、村人には秘密でジャケットの内側にはボイスレコーダーを忍ばせている。本来の目的とは別の意味を込めて。
 祭儀が始まる前、緑間に逃げるよう忠告した青年と目が合った。彼は一瞬目を見開いた後、すぐに顔を逸らした。その目は「なんでまだここにいる」と言いたげだったが、生憎と緑間の中には帰ることなど選択肢にすらなかった。
 自分自身の中に生まれた仮説を否定するために。
 しかし、もしその仮説が真実であれば、その時は。
 無意識に力が入ってしまい、手のひらに爪が食い込んでいた。
社の中は厳かな緊張感と異様な高揚感が充満している。その空気がますます、緑間の中にある焦燥感を駆り立てていく。
 シャン、と鈴の鳴る音がした。
 その瞬間、まるで糸が張ったようにより一層緊張が強く張り詰める。息をするのも、つばを飲み込むのさえ躊躇するような空気の中、それを一身に受けて真っ白な袴に身を包んだ『神子』が舞台へと姿を表した。顔には布が掛けられ、頭には荘厳な冠が松明の明かりを受けて赤金色にチロチロと妖しげな光を反射している。音が立たないように静かにゆっくりと進むその姿に目が離せない。字の如く、「神の使い」そのもののようで、神子の一挙手一投足を見逃してはならないという義務感に襲われるほどである。
 思わず見惚れる緑間だったが、ある一点に気付き体から急激に血の気が引いていった。
 撫で付けられた襟足から覗く白く細い首筋。すらりとしたその首に、赤く色づくものが見えてしまった。



     *     *     *     *     *


「和成、そこを動くなよ」
「え、なに」

 動揺する和成をよそに、緑間は必要最小限の力で和成の首筋を押さえる。いきなりのことにビクッと和成の体に力が入るが、緑間は気にした素振りもなく彼の首を押さえた手を見せた。そこにはたっぷりと血を吸った蚊が潰れているのだった。

「げ、まじかよ」
「遅かった。もう既に食われていたのだよ」

 そう言うと緑間はどこからともなくウェットティッシュを出し自らの手と、和成の首筋を拭う。ひんやりとした感触が気持ちいいが、一度意識をしてしまうとそこなじんわりと熱を帯びて痒みが出てくる。

「もー、最悪じゃん」

 和成は掻くのはためらうのか、指の腹で擦るようにしてなんとか痒みを逃そうとしていた。しかし痒みは増す一方で、なんとか爪を立てるのは堪えているが、掻き毟りたい衝動は増すばかりだ。

「あまり掻いてしまうと、痕になるのだよ」

 ひんやりとした柔らかな質感のものが触れる。真夏だというのに、緑間の指先は冷たかった。熱を帯びた患部にそれは酷く心地よく、和成は無意識に擦り寄っていく。
 和成の体温が緑間の指先へと移り、次第に微温くなっていく。しかし、それはまるでそこだけ二人の境界が曖昧になっていくような不思議で好い感覚へと陥っていくのだった。
 そっと指先は離れた。それを寂しいと感じてしまう。
 しかし、それを感じているのは和成だけでなく緑間もだった。ずっと触れていたいと、離すのが名残惜しいとさえ思ってしまった。
 二人の間に沈黙が降り積もっていく。初めてお互いをいち個人として認識した気恥ずかしさのためではあるが、不愉快ではない。胸の奥を擽るこそばゆい感覚にどちらともなく顔を見合わせ、笑い合うのだった。





 これが昨日、和成と別れる前の出来事。
 まだ鮮明に思い出せる記憶。
 あの華奢な首筋。襟足が掛かるその先にある赤。
 緑間はそれを知っていた。正確には、その首筋は十分に見知っていた。そして、赤い腫れが神子が和成だという確証へと導いたのだった。
 思わず出そうになる声を必死と押さえ込む。
 心臓が壊れそうなほど、鼓動が強く胸を打つ。
 今、舞台で軽やかに舞っている『神子』は、この村で知り合い、緑間の人生の中で初めて心を明け透けに許せる相手と認めた、高尾和成だった。
 仮説が正しい結果として証明されてしまった。そのことを認識したら途端に和成をどうやってしてでも生贄になどさせたくないという思いが強く芽生えてきた。しかし、緑間は今、社殿の隅に居り、ここから和成を救おうにも確実に村人に阻まれるであろうし、緑間が邪魔をされている間に和成は連れ出されてしまうに違いない。緑間の思考には、少しでも祭儀を遅らせるのではなく、和成を救い出すことしかなかった。
 そのために残されたチャンスは。
 緑間は必死に祭儀の流れを思い出し、それに伴う人の流れをシミュレートする。
 その結果、弾き出された答えは。
 緑間一人で和成を救い出せるチャンスはたった一度きり。それも一つでも条件が狂ってしまえば必ず失敗となる僅かなものだ。だが、それしか方法がないのであれば、最善を尽くして運命をもぎ取るだけだ。
 舞台上の和成を見遣る。軽やかに、裾をひらめかせながら舞う和成は美しかった。
 いつから神子となったのか分からない。だが、これまでの彼との会話を思い返すと、文字通り和成は世間を知らず、東京に行ったこともなく、狭いこの村の中でしか生きてこなかったのだろう。
 友人といえるかよく分からない関係性かもしれない。けれども、緑間は和成がこの狭い社会で生を終えてしまうことが非常に悔しくてたまらなかった。
 東京の繁華街に連れて行ったらどんな感想を抱くだろうか。
 俺の生きている世界を和成に見て、感じてもらいたい。
 和成の感性でもっと広い世界を見てほしい、というのは緑間自身のエゴだとは十分分かっているが、普段は私利私欲のために動かない緑間を動かすほど、高尾和成という存在は緑間真太郎の中で到底無視できないくらい大きなものになっていた。
 知らず知らずの内に力が入っていたようだ。ノートには強く握りすぎて皺だらけになってしまっていた。だが、既に研究を放棄した緑間は、今はノートは必要ないとでもいうようにポケットにおざなりに突っ込む。和成の一挙手一投足を見逃さないように、視線は舞台に向けたまま。



 社殿での儀式が終わった。
 一旦、神子は社殿を出て、その後奥にある洞窟へと向かう手筈となっている。
 しかし、舞台上にいる神子――和成は少しの間立ち止まったまま動こうとしなかった。世話役と思われる人に何度か促され、ようやく足を出した時。社殿の隅にいる緑間の方に顔を向け、少し傾げたように見えた。
 そして何事もなく和成は姿を消した。
 緑間は先程の動きから、和成は緑間が儀式の場にいることを知り、そしてきっと、自分が生贄となることを察してしまったことを勘付いたに違いないと思った。顔は見えなかったが、顔布の下では困ったように笑う和成の表情がまざまざと浮かび上がる。
 彼にそのような笑顔は似合わない。もっと太陽が照らすような大輪の、明るい笑顔を浮かべるべきだ。
 緑間はその思いに駆り立てられるように、速やかに社殿を後にした。
 そして、社殿の奥にある洞窟へと続く道の脇へと身を潜めた。洞窟へと続く道は一本しかないため、和成たちはこの道を通るだろう。最後の儀式が始まる前、洞窟へと近付く前しか和成を助け出せるチャンスはなかった。だが、和成の
手を取れたとしても、その後のことなど考えてもなかった。ただその手を取れたら上手くいくような気がする。直感めいた確信だけが今の緑間を突き動かしていた。  数分も経たないうちにこちらに近付く足音が聞こえてくる。その足音と呼応するように緑間の心臓も次第に大きく脈打ち始める。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながらも、しっかりと耳をそばだてて機会を窺う。
 そして。

 神子一行が緑間の身を潜めていた茂みの近くを通る正にその時。
 今だ、と思うよりも早く体は動いていた。茂みを飛び出し、その勢いのまま和成の手を掴み走り出す。

「和成! 来い!」

 最初は和成も何がなんだか分からない様子だったが、手を引いている相手が緑間と認識すると強く、その手を握り返した。それを合図に、緑間はスピードを上げ、追ってくる村人を躱すように逃げる。背後からは、「神子様が連れ去られたぞ!」「緑間とかいう男を捜せ!」と怒号が飛び交っている。それを背に、二人はペースを落とすことなく進んで行く。どこに逃げるか計画はなかったが、自然と足は二人が過ごした洞窟へと向いていた。


 二人が洞窟へと着いた時には追っ手の気配はなかった。少し集落から離れていることもあり、辺りにはいつもと同じように優しい静寂が満ちているだけだ。だが油断はできない。いつか必ず、ここも見つけられてしまうだろう。そうは分かっているが、これ以上は走れないということもあり、一時の休息を取ることにした。
 それに、和成には何も言わずに連れ出してしまったことを話さなければいけない。

「真ちゃん、脚、速いんだね」

 息も切れ切れな状態で、和成は笑顔でそう言った。その笑顔はいつもと変わらない眩しさで、緑間が見たかったそれそのものだった。緑間はそれを見たらいても立ってもいられず、 思わずといった様子で力いっぱい目の前の青年を抱き締めた。

「ちょ、なに、苦しい、苦しいって」

 和成は僅かに動く腕で緑間を叩くが、一向に緩むことのないその力に諦めたのか、すとんと力を抜き、緑間の思いを全身で受け止めた。

「すまないのだよ、和成。本当に、すまない」
「説明はしてほしいけど、たぶん俺が考えてることと真ちゃんがやってることの理由が一緒なら、真ちゃんが謝ることはねえって」

 ほらー、だから一回腕をほどこっか。じゃないと俺、窒息する。

 いつもと変わらない調子に、緑間はゆっくりと腕を解き、やっと正面からしっかりと和成の顔を見た。その顔を見た瞬間、緑間は焦燥感に駆られるこの感情を理解した。

(俺は和成のことが好きなんだ)

 この状況で自覚することではないかもしれないが、一つの答えが出たことでスッと頭が醒めていく。すると、今まで考えられなかった今後の選択肢が見えてくるようだった。

「なあ、真ちゃん。どうして俺を連れ出したのか、説明してくれる?」

 緑間は掻い摘まんでこれまでの経緯を説明した。祭儀の打ち合わせの時から違和感を抱いていたこと。和成の話題を出したら村人の態度が一変したこと。そして、それらの状況から和成が神子である可能性を考え、そして首元の虫刺されで確信したこと。
 そして、きっと神子は今日の祭儀で正しく生贄としての使命を全うするだろうということ。
 それらの話を和成はただ頷いて聞いていた。まるで答え合わせをする小学校の先生のように優しく微笑みを浮かべながら。

「真ちゃんの話、大体その通りだよ。俺はこの村の信仰の神子で、たぶん生贄として近々死ぬ」

 だから、真ちゃんが謝ることなんて、一つもねえよ。

 そう言う和成の表情は穏やかだった。不安も悲しさも恐怖もなく、落ち着いた様子で淡々と話していた。だが、緑間は彼がとても表情豊かで感情が表に出やすい性質だということを知っている。だからこそ、その落ち着きは感情をすべて押し殺した故のものだと気付いた。その顔を見ると、緑間自身の欲も相まって、より和成に生きて欲しいと願いが出てくる。

「和成、俺と逃げよう」

 そう口にしようとした。だが、それは和成の言葉によって遮られてしまった。

「本当に、真ちゃんに出会えたこの二週間、人生で一番楽しかった。だって俺の名前を呼んでくれるんだから。
 俺さ、小さい時から神子になることが決まってたんだ。だから、友達もいなくて、名前も呼んでもらえなくて。ずっと友達が欲しかったし、名前を呼んで欲しかった。でも、今は真ちゃんがいる。それに、俺のことを『和成』って名前で呼んでくれる。最後くらい神様がサービスしてくれたのかなって思うくらい幸せなんだ。
 だから、俺はもう人生に悔いはない」

 和成はいつものように眩しく笑う。本当に幸せを感じているのは明らかなのだけれど、その眩しさが苦しく胸を締め付ける。この男はたったそれだけの些細な幸せだけで、死ぬことを甘受しようとしている。価値観が違う。人生観が違う。でも、その狭い視野の中で作られた幸せだけで、死んでいい男ではない。完全に自分自身のエゴだが、例え和成自身が死を受け入れていようと、緑間は彼に生きて欲しいとしか思えなかった。

「何度だって、これからも名前ぐらい飽きるまで呼んでやる! だから、お願いだ、自分を犠牲にしないでくれ!」
「真ちゃんは優しいね。ああ、俺、真ちゃんが好きだなあ。たぶん初恋」

 和成が好意を抱いてくれていたことに、緑間の胸は高鳴る。ならばと、

「和成、俺も」
「それ以上は言うなよ。心残りが出来る。俺はいいんだ、これで」

 また先程までのような感情を押し殺した落ち着いた表情に戻ってしまった和成に、緑間の中で何かが切れた。

「心残りがなんだ。お前は俺のことなど考えていないだろうが。ならば俺もお前のことなど考えるだけ無駄なのだよ。
 和成、俺もお前が好きだ。たった二週間だけだったかもしれない。それでも、お前を失いたくないと思うのだ! これが恋以外の感情であるものか!」
「……だから、生きたくなるじゃねえか。もっとこの幸せが続くことを望んでしまうじゃねえか! 俺には未来はないのに、なんでそんな残酷なことを言うんだよ!」
「生きればいい。幸せを望めばいい。お前にはその権利がある。それに、俺はお前と生きたいと思ってしまったのだ! お前は俺のこの感情を否定する気か!」
 逃げている最中にも関わらず、怒鳴り合ってしまった。だが、後悔はない。生きることを一度諦めた人間を揺さぶるには、生身の感情をぶつけるしか方法はなかった。
 時間は刻一刻と迫っている。もうじき、追手の声が聞こえるだろう。徐々に焦りは生まれるが、緑間は辛抱強く和成の言葉を待った。和成は顔を地に向けたまま小さく肩を震わせている。
 そしてポツリ、と小さく零した。

「生きたい」
「死にたくない」
「真ちゃんと一緒にいたい!」

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら生きたいと願う姿は、今まで緑間が見た中で一番人間らしい和成だった。『神子』という使命を脱いだ一人の、等身大の男の心からの叫びだった。

「生きよう、一緒に」

 泣きじゃくる彼を腕に抱き、優しく背中をさする。
 その時だ。遠くから小さく声が聞こえた。きっと追手の声だろう。不明瞭で何を言っているのかは分かりづらいが、切迫した様子は声からだけでも読み取れる。
 逃げなければ、と焦る緑間に和成は、

「俺が囮になるから、その隙に逃げて」
「それではお前が捕まってまた生贄に」
「大丈夫。この村、なまじ信仰が厚いから、そう簡単に俺に手出しはできないよ。それに、真ちゃんが逃げたとなると、いつ発覚するかと恐れておいそれと殺したりはしない」

 その時、緑間は胸に忍ばせていたボイスレコーダーの存在を思い出した。慌てて表示を確認すると、まだ録音はできているようだ。急いでレコーダーからデータをスマホに移す。そして、レコーダー本体を和成の手に押しつけた。

「もし、命の危険を感じたらこれを出すのだよ。この中には祭儀の内容やお前が話したことが全部入っている。信仰が厚く、外部にこの情報が漏れることを恐れる村人はきっと、これを見せると手を出せなくなるだろう。データはコピーして俺も持っているから、その機械が壊されても問題はないのだよ。
 だから、お前は生きたいと願ってくれ」
「うん、分かった」

 強く命綱を握りしめた和成の瞳は、生きることを願う強さを、輝きを放っていた。
 徐々に村人の声が近付いてくるのが分かるが、離れたくないと脚は動こうとしない。今この手を離してしまったら二度と会えないかもしれない、という不安が全身を襲う。

「大丈夫。大丈夫だよ、真ちゃん。俺は絶対に生きて、また真ちゃんに必ず会いに行くから」
 ふわりと包み込むように握られた両の手。手袋越しではあるが、その手の温かさに証拠はないがこれから先も和成と二人で歩いて行ける未来が想像できるようだった。

「絶対なのだよ、約束だ」
「約束する。だから、真ちゃん、今のうちに逃げろ。この先の獣道を進めば、遠からず道に出る。その道は村からも離れてるから、きっと捕まらない。真ちゃんが捕まったら元も子もないから、お前こそしっかり逃げ切ってくれよ」

 行け、と和成は背を押す。一旦ここで別れても、これは一生の別れではない。また再会するまでの通過点でしかない、と言い聞かせ、緑間は一歩一歩足を進める。そして、

「向こうで待っている! 必ず! 必ずだからな!」

 歩は止めることなく前を向いたまま、強く、強く叫んだ。それに対する応答は聞こえなかったが、きっと和成は笑っただろうと思った。



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