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「俺さ、東京とか行ったことないんだ。一度は行ってみてえな」
「行けば良いじゃないか。東京には俺もいる」
「真ちゃん家行ってもいいの!?」
「俺の家に来て良いとは言ってないのだよ」

 次の日、午前中に簡単に調査を行った緑間は、午後は昨日迷い込んだ山道で和成と会っていた。和成は昨日の白一色の袴姿とは異なり、白のワイシャツに黒のスラックスと、至って簡素な出で立ちだった。ただ一点、手に嵌めた白手袋だけは僅かな違和感を醸し出している。
 昨日は迷ったことで辺りの様子を観察する余裕がなかったが、少し道を逸れると少し腰を落ち着けるには丁度良い洞窟があった。和成は地元の人間ということもあり、よく知っている。洞窟の中は夏の刺すような陽射しが遮られ、心地よい環境が作られていた。

「真ちゃんは東京出身なの?」 「そうだが」

 そこから冒頭の会話に繋がる。
 このご時世、特急電車を用いればこの村からでも三時間もかからずに東京まで行ける。余程関東から遠くに住んでいない限り、東京に行ったことがない人の方が珍しいが、少し浮き世離れした青年のことだ、行ったことがないことにもなぜか納得してしまえる不思議な説得力があった。

「いいなあ、東京。俺、テレビでしか見たことないんだよ」
 思いを馳せるように、遠くを眺めながら呟く。その横顔に輝きを湛えながらも、どこかに諦めに似た哀しさを漂わせていた。

「和成は、」

 この村から出たことがないのか。

 緑間はそう聞こうとして口を噤んだ。あまりの無垢さに、こいつはこの村以外の世界を知らないのではないか、と思ってしまった。しかし、それを聞いてどうする。この現代に、こんな時代錯誤な出来事はない、とすぐに否定した。

「何?」
「いや、別に何でもないのだよ」

 今の二人の間に、これまでの過去は必要ない。今、この場で感じるもの、それだけがあればいい。詳しくは分からないが、緑間と和成は明らかに異なる人間である。それは人間という個体として異なるだけではなく、生まれた場所も、育ってきた環境も、これから見るであろう景色も、一点だけ交錯している現在を除けば全く違う人生を送っている。今、二人の人生が交わっていることが奇跡と呼べるほど、二人には共通点はない。
 しかし、二人の間には、お互いにこれまで生きてきた中で、ここまで隣に居て心地良い相手は居ないと思うほど、安らかな空気が流れていた。

「真ちゃんは何で、この村に来たの?」
「昨日も言っただろう、研究のためだ」
「それはそうなんだけど、何でこの村を選んだの?」
「それは、この村の伝統文化が興味深かったからなのだよ」

 緑間がフィールドワークの場に選んだこの村は、現代でありながら昔からの独自に発展した宗教を信仰していた。宗教と言えば大仰に聞こえるが、土着の信仰であり、神道の一派として捉えられている。
 土着の宗教は今の日本にも数多く存在しているが、この村の信仰に緑間が大層興味を惹かれた理由には、『神寄せ』分かりやすく言えば、『シャーマン』のような存在が信仰の中心となっている部分にある。
 村の顔役などによれば今は形だけ、と形骸化しているようだが、祭祀の時などは神子役を村の少年少女が務めているとのことだ。どのような基準で選別しているのかについては、信仰の中心に関わってくるため明かせない、と言われたが、このように今現在までも村一丸となって一つの信仰を守っているところは数少ない。
 緑間の専攻は民俗学であるため、本来であれば宗教は専門外である。しかし、文化は宗教と関わりあって発展し、文化があればそこに信仰が生まれ、信仰がある場所で文化は発展していく。宗教と文化は切っても切り離せない関係だと思うようになった。

「現代まで、これほどまでに強く信仰が残っている地域も少ないのだよ。それに、この村については珍しさの割に、関連する資料が非常に少ないのだ。俺の所属している研究室は、必ず一度は一人でフィールドワークをすることが通例となっているから、ならば誰もまだ触れていない文化、信仰について知ろうと思ったのだよ」
「ふうん。よく分かんないけど、さすが博士のたまごって感じ?」
「まだそこまでではないのだよ」

 そうは言うものの、緑間の耳は少し赤くなっていた。誤魔化すように眼鏡をかけ直す。
 和成はその彼の姿をじっと見つめている。大きな体躯にもかかわらず、繊細な手つきで眼鏡をいじるその姿。木漏れ日により彩られる陰影によって、さらに緑間の姿は美しい芸術のようだった。
 少し話しては、沈黙する。
 しかし、沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ言葉を紡がなくても良い心地よい瞬間だった。不思議なことに、お互いのことはほとんど知らないにも関わらず、まるで離れていたことが不自然であったかのように、一緒に居る空間がとても自然に感じているのだった。

「ねえ、真ちゃん」
「何なのだよ」
「もしもだけどさ」

 同じところで育っていたら、どうなっていたと思う?

 和成はほんの冗談のつもりだった。
 きっと、こんなに雰囲気が心地よい相手と四六時中居られる空間に居たとしたら。その時も、やっぱり仲良くなっていただろうか。

「……過去の俺とはきっと仲良くなれていないだろうな」

 緑間の口から出てきたのは、意外な言葉だった。

「どんな奴だったんだよ」
 それは……、と緑間は言葉を濁した。余程話したくない事なのかもしれない。それでもなにを言おうか真剣に考えている姿が、和成にとってはただただ嬉しかった。自身の向き合いたくない点を自分に話してくれようとしている。それだけ緑間も和成に対して心を許していてくれていることが、嬉しかった。

「いいって、無理に話そうとしなくても」

 俺も話してないことあるしさ。
 その一言は言わずに。顔には笑顔を浮かべて。
 どうか、この笑顔に紛れさせた嘘に気付きませんように。
 和成は心の中でそっと呟き、笑顔の裏に隠した。



 それからの二週間、週に二、三回ほどは緑間と和成は会い、午前中は緑間の研究の手伝いをし、午後は隠れるように洞窟の中でととりとめのない会話を紡ぐ、穏やかな時間が過ぎていった。

「お前、一日俺と居て大丈夫なのか?」
「いいのいいの、真ちゃんが気にすることじゃないよ」

 白一色の姿は初対面の時のみで、その後は白シャツに黒のスラックス、手には白い手袋という出で立ちだった。真夏の盛りだというのに、決して肌を見せることはなく、彼の明るい表情とは裏腹に、日の光など知らないような青白い肌色。緑間は、勝手に和成は病弱な青年というイメージを作り上げていた。ただじっとしているだけでも汗ばむようなこの季節に、一日中屋外に居てもいいのだろうか、体調を崩さないだろうか、という緑間の勝手な心配をよそに、和成はとても楽しそうな表情で、緑間の隣にいるのだった。

「この村のこと調べて、何になるの?」

 和成にとっては大きな疑問だった。この村のこと、この村の独特な風習を調べても、それが何になるというのだ。きっとお金にはならないだろうし、こんな辺鄙な田舎のことを知りたいと思う人間が、果たしてこの世にいるのだろうか、と不思議だった。

「何にもならないだろうな」
 そう言い切った緑間の横顔は、悲観しているわけでもなく、ただ冷静だった。

「まず、研究というものは金にはならん。金を使うだけ使って、得られるのはほんの少しの成果でしかない。それも、役に立つか分からん、利益になるかどうかも分からん、ただの事実でしかない。
 だが、俺はそういうものの積み重ねが、今の豊かな現状を作っているのだと思っているのだよ。確かに、この村のことが世に大きな影響を与えることはないだろうが、それでも俺は知りたいと思った。きっとこのフィールドワークは、経験は大きな一歩になる気がするのだ」

 眩しいな。
 和成は、目を輝かせてしゃべる緑間の顔を見て、そう思った。やりたいことを見つけ、その目標に向かって進めるだけの環境があり、突き進む精神力がある。目の前にいる、緑間真太郎という男は、それらを持っており、それらを持て余すことなく心血を注いでいる。
 和成にとって、手の届かない眩しい存在だった。
 だが、手が届かないからといって厭うことはなく、彼の真っ直ぐ伸びた美しい感性にひどく心酔してしまっていた。だからこそ、もっと彼に近付きたい、彼の視界に入りたい、という思いが大きく育ってしまった。
 しかし、世間知らずで無知な和成はこの思いを好意だとは知らない。感情で抑制できない衝動に突き動かされるまま、秘密の花は綻んでいく。

「あのな、真ちゃん。俺、言ってなかったことがあるんだけど」
「なんだ?」
「俺、実は、」

 その時だ。遠くから人の声が薄らと聞こえる。それは不明瞭ではあったが、切羽詰まったような響きがあった。
 そして、それと同時に、和成の顔色も変わった。明らかに先程までとは違い、緊張が張り詰めていた。

「和成、どう」
「真ちゃん、ごめん。俺、帰らなきゃ」

 そう言うや否や、和成は脱兎のごとく、その場を後にした。ただ一言、

「俺の名字、高尾っていうんだ!高尾和成だよ!」

 まるで、最初の時のように、名前だけを残して。

「高尾…高尾和成というのか……」
 緑間はその名前を噛み締めるように、口の中でつぶやいた。この名前とは、これから先もずっと切れないような、不思議な予感を感じながら。



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