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『神子様』
 もうどれくらい自分の名前を呼ばれていないだろう。
 まだ幼かった頃は、「神子様じゃない」と反発していた。
 けれど、いつの日か諦めてしまった。
 もうこのまま、誰にも自分を見てもらえないまま死んでいくのだろうか。
 せめて、あと一度だけでも良いから、名前を呼んでほしい。
 ただ、それだけの願い。


 田舎の夏は暑い。そしてうるさい。
 今でも蝉がけたたましく鼓膜を揺らす。その音だけで頭痛がしそうだ。
 これまで都会の夏しか経験してこなかった緑間真太郎は、イメージとかけ離れた田舎の夏に辟易していた。清々しさなど微塵もない、湿気がまとわりつくようで、とても鬱陶しい。
 村の顔役に挨拶するために来ていたジャケットは無造作に腕にかけられ、首元のボタンは三つほど開いている。その格好に強烈な違和感を覚えるのは、緑間の雰囲気が品行方正そのものだからであろう。実際、普段はどれほど暑い日であろうと、首元までシャツのボタンは閉められている。
 そして、格好の違和感とともに感じられるのが、これまた強烈な威圧感である。
 その原因は、

「ここはどこなのだよ!」

 緑間真太郎の叫びは、蝉の声に掻き消され、自然の中に埋もれていく。
 全く土地勘のない田舎で、道に迷った、即ち『迷子』となったのだ。

 緑間真太郎は民俗学を専攻している大学院生である。
 院生となったことで、今回、初めてフィールドワークが許可された。本来ならばチームを組んでいくところを、幸か不幸か、緑間が入ったゼミは“処女航海”と称して、初めてのフィールドワークはすべて単独で行うことが伝統となっていた。とはいえ、さすがにすべてを一人で行うことは初めてフィールドワークを経験する院生にはハードルが高すぎるため、たいていの場合は教授や助教、博士課程の先輩の伝手(という名のコネ)を頼り、経験させてもらう。
 だが、緑間の場合は違った。一人でフィールドワークをすると知った時に、その言葉を額面通りに受け止めてしまい、調査場所の確保、調査研究の計画書、果ては予算まですべて調達してきてしまったのである。それを知った教授、ゼミ生は緑間真太郎の行動力に恐怖を覚えつつも、逸材が入ったと狂喜乱舞したのだった。
 このようにして、緑間真太郎はフィールドワークへ送り出されたのだが、そこには誰もしらない、さらに言えば緑間自身さえ気付いていない落とし穴があったのだ。

 緑間真太郎は方向音痴なのである。

 スマートフォンのGPSを使おうにも、不運なことに昨夜充電し忘れていたためバッテリーはなく、モバイルバッテリーは旅館に預けた鞄の中だ。今日のおは朝のラッキーアイテムを誤って壊したことが、このような状況を生んだとしか思えない、最悪な状況だった。
 幸いにも、ここは山の中ではなく、農道のようではあるが道は通っている。このまま道沿いに進んで行けばいつかはどこか集落にたどり着くだろう。真夏の日差しが容赦なく肌を焦がす灼熱の中、緑間はとりあえず歩を進めた。
 しかし、歩けども歩けども、人っ子一人出会う気配がない。周囲の風景も人が住んでいる様子はなく、手入れは行き届いているが、どこか生活感のない雰囲気が漂っていた。
これ以上進むべきか、それとも引き返してみるべきか。
いくら夏で日が長いとはいえ、日没まで迷子になっている猶予はない。日が傾きかけた森は死角が多く、危険が多く潜んでいることは、挨拶に行った顔役からも注意されていた。そろそろこの迷路から抜け出さなければ、フィールドワーク一日目にして調査を断念する結果となるかもしれない。焦りから苛立ち始める自身を抑えるために、一度大きく深呼吸をして気合いを入れ直した時だ。

「もしかして、迷子?」

 急に背後から声がした。思わず振り返ると、そこには白一色の袴姿をした青年が立っていた。先程までそこには誰もおらず、それに加えて死に装束のような服装をしている。緑間は柄にもなく腕に鳥肌が立つのを感じた。
 緑間のその様子を察したのか、青年は、

「俺、死んでないから! 生きてる生きてる!」

と、いきなり緑間の手を掴み、自身の首元に当てたのだった。確かに首筋は温かく、ドクドクと頚動脈が波打っているのが感じられた。青年は人間なのだと安堵するとともに、その事実が青年の奇異さを際立たせている。
 死に装束のような真っ白の袴姿、真夏だというのに透き通るような白い肌、そして手を覆っている白い手袋。

「村に戻る道が分からなくなってしまったのだよ」
「そういうこと。確かにここらはあんまり人が居ないからね。いいよ、ついてきて」

 青年はひらり、と軽やかに踵を返した。どうやら道案内をしてくれるらしい。その方向は緑間が進んでいたのとは反対だった。
 刺すような陽射しも、纏わり付く熱気ももろともせずに、青年は歩を進める。

「ねえ、君ってなんていうの?」
 歩きながら青年は尋ねた。そういえば、自己紹介もまだだったことに気付く。

「緑間真太郎だ。今は研究のために訪れている」
「そっか。じゃあ、なんとか博士っていうやつ?」
「ただの学生なのだよ」
「まじで? じゃあ見た目より若いの?」
「二十三になったばかりなのだよ!」
「え、うそ、ほんとに? 俺と同い年じゃん!」

 さも意外そうに青年は驚いた。緑間としては、自身が年齢より上に見られることがあることに自覚はあるが、それ以上に目の前の青年が同年齢だという事実が信じられなかった。確かによく見ると二十歳は超えているような容姿だ。だが、見た目の年齢と青年の雰囲気に大きな隔たりがあるように感じられていた。

「そういうお前の名前はなんだ」

 自己紹介である。相手の名前も知りたいと、名前を尋ねた。すると、その青年は一瞬ためらった後、

「和成」

 と、すこし恥ずかしそうにつぶやいた。

「名字は何というのだ」
「いいじゃん、名字なんて。俺は和成。で、お前は真太郎」

 でも、真太郎って長いから真ちゃんでいっか!

 青年はとても嬉しそうに笑った。その笑顔は夏の太陽のように眩しく、目を細めるほどに輝いていた。
 自己紹介だけで、しかも名前だけでここまで嬉しそうなのはなぜなのだろう。
 一瞬、緑間の脳裏に疑問が過ぎった。しかし、緑間の生まれ育った東京と、このような地方のさらに田舎では感性も異なってくるのだろう、と知らず知らずのうちに納得をしていた。

「おい、和成」
「何?真ちゃん」
「その真ちゃん、という呼び方はやめろ。慣れん」

 和成は、いいじゃねえか、と笑っただけだった。
 確かに呼び方には慣れないが、嫌な気分ではない。体の中がむずむずする、気恥ずかしさを感じたのだった。これまでの人生、緑間はあだ名というあだ名を付けられたことがない。
 このような親しみのある名前で呼ばれることが、これほどまでに特別に心が動かされるものなのか。
 緑間は自身が意識しないうちに、いつの間にか微笑んでいた。しかし、それを指摘する無粋な者はここにはいない。初めて会って少し言葉を交わしただけの、それほど時間が経っていない二人であったが、そこには沈黙という間隙が苦痛にならず、穏やかな雰囲気が漂っていた。同じ年齢だからなのか、それとも、言葉を介さないどこかが似ているのか、それとも。
 しかし、二人はこの間隙が苦痛でないことが特別であることを意識していなかった。緑間は持ち前の天然さで。和成は、経験の浅さで。

「ここの分かれ道を右に行くと、たぶん真ちゃんの行きたい村だよ」

 どうやら日が傾く前に宿には帰れそうだ、と緑間は少し安心した。

「すまなかった。ここまで案内してくれてありがとう」
「いいよ。俺もここまで来たの久しぶりだし、真ちゃんと話せて楽しかったし」

 そう言って笑った和成の顔は、真夏の傾きかけた陽に照らされているのも相まって、とても眩しく見えた。太陽のような笑顔とは、まさに彼の笑顔なのだろう、と思う。それほど輝かしく、そして無垢な笑顔に緑間は一瞬、心を奪われてしまった。

「和成、明日も会えるか」

 初めてだろう、緑間が人を誘うのは。思わず口を付いて出てしまった、とでも言うように言った張本人の緑間が目を丸くしている。
 目を丸くしているのは緑間だけではなかった。和成もまた、突然の誘いに目をしばたたかせていた。少しの空白の後、和成は綻ぶように顔を緩め、

「もちろん真ちゃん。お前がここにいる間、できるだけ会おうぜ」

 初対面の見知らぬ二人は、期間限定の友人となったのだった。


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