思い出の、そのままで


 写真を取るから、こっち向いて。
 そう言うと君はすぐに照れて視線を逸らしてしまう。だからこう言うんだ。

「レンズ越しに俺を見て」




 秋の空は天高く。どこまでも抜けるような濃いブルーに吸い込まれそうな感覚を覚える。
 高尾和成は木々の間から空を見上げていた。

「なあ、真ちゃん。俺、ジャンプしたらあの雲まで手が届くんじゃねぇかな」
「とうとう馬鹿になったか」
「なってねぇよ!でも、ほんと届きそうなんだよなあ」

 届くはずもないことなど十分に承知しているが、指先だけでも掠らないかと、精一杯に手を伸ばす。背伸びをした足元の枯葉が乾いた声で歓声を送る。

「やっぱ無理かぁ……」
「何を当たり前のことを言っているのだよ」
「分かってるけどさぁ、」

 分かんねぇじゃん?
 きらきらした瞳で、まるで子どものように精一杯に、空に向かって手を伸ばす高尾の様子に、緑間は思わず口元が緩んでしまった。同学年だが、容姿も、嗜好も、思考も、全く異なる二人。何の因果もない二人だけれど、『好意』という一点で繋がっている。光に溶けて見えなくなるくらい細いけれど、蜘蛛の糸のような強靭さがある。
 緑間が微笑んでいるのを見て、高尾も顔いっぱいに笑顔を広げる。誰もいない木立に、きらきらしい空気が満ちた。

「写真、きれいに写るかな」

 使い慣れていない手付きがもどかしい。高尾は恐る恐る一眼レフカメラをいじっている。父の部屋から無断で拝借したそれは、素人目にも高価なものだと見て取れる。壊したらただじゃ済まないよな、と笑いながら言う隣で、緑間は説明書を読んでいる。しかし、何も言わないあたり、よく理解できていないのかもしれない。

「ま、適当に撮ってれば、いつかいいのが撮れるか!」

 高尾は諦めて、レンズを空に向ける。適当に、何のこだわりもなく、シャッターを切る。軽い音とともに、一瞬前の空が記録されていく。肉眼で見たアナログの景色が、デジタルとなって手元に残る。

「やっぱ、写真だとちょっと違うなー」
「脳内で補正が掛かっているのだ、お前の頭の中が全く写るわけではないのだよ」

 どうしても、この景色を残したいじゃん。
 緑間は少々不満げな高尾に愛おしさを覚えた。
 いつでも自分の思いに真っ直ぐで、嘘がない。
 高尾和成の美点とは、素直さであることかもしれない。真面目にしか生きられない緑間にとっては、とても眩しいものだった。

「俺の中で見えてる景色が、そのまま真ちゃんにも見えたらいいのに。そうしたら、俺の感動をもっと分かってもらえるのにさー」
「そうか?俺はそうは思わん」
「なんで?俺は、俺の見てる世界を真ちゃんと共有したいし、真ちゃんが見てる世界も知りたい」

 高尾は心底不思議そうに緑間を見つめる。お互いが独立した人間である限り、決して同じ景色を見ることはできない。そのことに悲嘆を覚えるのが高尾和成という人間であった。
 緑間は、

「俺はお前の見ている世界が見えないからこそ、お前から出てくる言葉一つ一つを大切に思うのだよ。同じ世界に生きていても感じ方が違うのであれば、口から出る言葉も違う。だからこそ、俺はお前が好きなんだ」
「結局、そこかよ」
「悪いか」
「いんや。全然悪くない」
 お互いに顔を見合わせ、どちらからともなく軽く唇を合わせる。
 ここには誰もいない。二人が二人のままで、望む姿で居られる。鮮やかな陽射しの下で、静かな木々に囲まれた中で。
 緑間は、二人が別の人間であることに価値を見出す人間だった。一人一人がそれぞれ世界を持っているのなら、この世には無限にも等しいだけ世界が存在する。それらの世界を繋ぐ言葉というものが、人間が人間足り得るものだと、そう信じている。

「じゃあ、良いカメラで写真撮っても意味ないか」

 そう言うや否や、高尾はカメラをケースにしまい、スマートフォンを取り出した。

「俺らにはこれくらいで十分なのかもな」

 インカメにして自撮りをする。急な出来事に緑間の顔は真顔のままだった。

「うは、だっせぇ。真ちゃん真顔かよ」
「お前が急に撮るからだろうが!」
「それでもこの顔はないわー」

 澄み切った青空に、明るい笑い声が消える。いつまでもこの空間が続くのだと、思わず錯覚してしまいそうだった。


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「なぁ、そろそろ帰る?」
「そうだな」

 秋の日は釣瓶落とし、と言う。十七時を回ると、木立の陰影は濃くなり、影は伸びる。
 早く帰ろう。暗くなる前に。
 高尾はそう思うのだけれど、口でも帰ることを促すのだけれど、心が動きたくないと叫んでいる。
 早くに暮れる陽に紛れて、闇の中に溶けて消えてしまえればいいのに。
 自身の中に黒い感情が渦巻いていくのが分かる。それではいけない、と分かっていても淀みは濃く、高尾の心に纏わりつく。

「何をしている。帰るぞ」
「あ、うん」

 足を重くさせていた澱は、緑間の声に反応し、隠れた。緑間に促されると、あれだけ嫌がっていた心も素直に着いていく。

(真ちゃんは神様だ)

 俺の、俺の世界だけの、たった一人の神様。
 どうしようもないほどに愛してしまった、俺の奇跡。
 緑間の鮮やかな髪が、柔らかに夕陽を反射する。

「俺、やっぱり夕方は嫌いだわ」

 高尾の口から転がり落ちる。

「現実に戻らなきゃ、と思うとすっげぇ嫌だ」

 なぁ、真ちゃん。別に俺らはこのままでもいいんじゃないのか?
 高尾の目がそう訴えていることは、緑間にも分かった。その思いは、緑間も抱えていたものだった。
 別に、自分らがこのままでも、いいじゃないか。何も不都合はない。
 分かっている。自分たちの意思を貫くことで得られる信頼もある。高尾が好きなだけ、ただそれだけだ。
 しかし、緑間は良くても、高尾には高尾の、別の世界がある。その可能性を自分勝手なエゴで狭めてしまってもいいのだろうか。
 愛することは簡単なようで、とても難解だ。愛を得るには、何かを犠牲にしなければならないのだから。
 だから。

「お前がどれだけ俺を愛そうが、俺がどれだけお前を愛そうが、それだけではだめなのだよ。前にも言っただろう、今のうちならまだ傷は浅くて済む。何もかも思い出にしてしまおう、と」

 二人の間に静寂が張り詰める。以前から約束をしていたことだった。高尾が十八歳になったその日に別れよう、と。誰も、自分達の関係を知らないままで終わろう、と。
 このまま永遠に十七歳でいられないかと願わない日はなかった。しかし、時間とは時に残酷だ。誰にでも平等に訪れる代わりに、誰にも止めることはできない。
 過ぎ去る時間の前には、愛などただのお飾りでしかなかった。

「そう、だったな。約束だよな。うん」
「そうだ、最後の約束だ」

 お互いの目に覚悟が宿る。弱冠十八年しか生きていない、何も知らない少年たちが自らの運命にメスを入れる。
 もう、後戻りなどできないところまで来てしまったのだ。
 自分達は正しかったのだと、認めるためにも。
 ここで受け入れなければすべてが嘘になる。
 自分達の関係を肯定するためにも。

「これで、お別れだな。今までありがとう」
「俺も、ありがとう」

 高尾からは逆光で緑間の表情は見えない。だけれども、高尾には緑間が優しく、苦しく笑っているのが見えた。高尾の見る世界からでは、緑間も苦しんでいるように見えた。

「帰ろう」

 闇の気配が濃くなる。そろそろ現実に帰らなければ。

 背を向けた緑間に、高尾は一つ、声なき想いを告げた。



『いつまでも愛してるよ、真ちゃん』



 高尾和成の部屋には一枚の写真が飾ってあります。
背景のピントはボケており、上手とは言い難い写りの一枚。そこに写るは眼鏡の青年。
妙に引きつった顔で、レンズの奥を凝視するように見つめています。
もう何年も飾ってあるのでしょう。青年の鮮やかな髪色は色あせています。
それでも、高尾和成はこの写真を捨てられずに居ます。


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