狼人間



 もしも、自分が化け物だったら。


   だったら、自分は狼人間になりたかった。





 もうすぐ冬至が近い。一年間で一番夜が長い日。今年は、丁度満月と重なるらしい。
 部活が終わると、辺りは既に暗闇が溶け込んでいた。外気に触れている部分が刺すように痛くなるほどの寒さに、思わず肩をすくめてマフラーに顔を埋める。街灯の明かりも心なしか青みを帯びて見える。

「寒いな」

 まだ冬は始まったばかりだというのに、もう口癖となってしまった。本当に寒いと思っているが、口に出したことに深い意味はない。どうせ夏になると、「暑い」が口癖と変わる。
 隣の相棒から返事はない。もとより期待はしていないし、無視される方が相棒らしいというか、そのような関係性が存外に気に入っている。
 緑間真太郎は、一言で言えばロボットのような四角四面の真面目人間だ。そして、天然。本人は断固として否定しているが、他評は一致しているので天然物の天然である。今日も、おは朝でのラッキーアイテムが白手袋だったため、寒い中、綿でできた手袋をつけているのである。勉強はできるのに、このような融通の効かない部分は、馬鹿だと思う。本人の前では決して口にはしないが。
 今でも、流石に寒いのか、日頃は全くしない制服のポケットに手を突っ込み歩いている。

「今日は二つ手袋持ってるから、一つ貸すぜ?」
「別にいい」

 いつからか、自分もおは朝の占いをチェックするようになった。ラッキーアイテムがなかったときの緑間の機嫌が最悪であるため、少しでもエース様の機嫌を取るために、先輩から緑間の相棒として頼まれたのが最初だった。だが、次第に義務感からではなく、自分の意思でチェックするようになった。それがいつからだったのかは覚えていない。ただ、そのことに自分自身で気付いたときには、既に緑間真太郎のことを好きになっていた。

 初恋だった。

 これまで、何人も女の子から告白をされてきた。自惚れているわけではないが、比較的モテる方だという自覚がある。顔を赤くしながら好意を伝えてくる姿は、一生懸命で、輝いて見えた。いつかは自分も彼女たちと同じように誰かを好きになり、誰かのことで一生懸命になるのだろうと、恋をするときを待っていた。
 好きになる誰かが、まさか同性だとは思わなかった。
 これまで誰かを好きになったことはなかった。恋をしたことはなかった。最初は、これは一時の気の迷いだと、認めようとはしなかった。世話を焼いているうちに情が移ってしまっただけだ、きっとすぐに他に好きな女の子ができる。クラスメートにおすすめのアイドルを聞いたり、かわいい女子を聞いたり、自分も女の子が好きなのだと足掻いた。しかし、足掻けば足掻くほど、反対に緑間真太郎への気持ちは大きく膨らんでいくのだった。
 恋をすることを楽しみにしていたのに、実際はこんなにも苦しいものなのか。
 理想の自分と、現実の自分のギャップに何度も自己嫌悪をした。ただ、普通の人のように異性を愛することができないのか、と自分の無能さに落胆した。
 恋一つでここまで振り回されるなんて。だったら、恋などしなければいい。誰かを好きになることをやめようと、緑間真太郎への恋心を忘れようとしたが、初めての恋に、自身の中にマニュアルはなく、ただただ自分を責め続けることだけが続いた。
 契機が訪れたのは、突然だった。

「別に誰が好きでもいいんじゃねえのか?」

 部活後に宮地さんに呼び出された。呼び出された理由には多少なりとも心当たりがあった。緑間のことを考えすぎて、ここ最近は授業はおろか、部活さえも集中できていなかった。

「最近、お前どうしたんだよ」

 その目に詰る色はなく、心配してくれていることが窺えた。そして、自分の勝手な都合で多くの人を巻き込んでしまったことに、嫌悪した。

「いやぁ、最近悩み事が多くて」

 返ってきた模試が最悪だったんすよー、と笑って流した。事実、悩み事は多く、実際に模試の結果は最悪だった。
 きっと、本当のことを知られたら軽蔑されてしまう。
 本能的にそう感じ、少しの嘘と笑顔の仮面で本心を隠そうとした。

「馬鹿か。お前がそんなことで悩むかっつーの」

 軽く頭を叩かれた。お前の悩みはそれじゃないだろう、とそう言われている気がした。

「少なくともなぁ、お前よりは二年も長く生きてんだよ。一緒にバスケしてりゃ、お前がそんなつまらん事で悩むはずがねえことくらい分かるっての」
「模試が悪かったってつまらん事なんすか?」
「ああ、一年の時の模試の結果なんて大したことねえよ」
「宮地さんは頭いいからそんな事言えるんですって」
「お前だって馬鹿じゃないだろうが」

 くすぐったいような、恥ずかしいような、嬉しいような。生意気な後輩であるにも関わらず、高尾和成を認めていてくれていることがどれだけ嬉しいことか。
 ああ、宮地さん好きだなぁ、と思う。でも、それは尊敬、憧れ、信頼としての好きだ。宮地さんには緑間に抱くような慕情、愛欲、そして嫉妬はない。
 自分は、緑間真太郎という人間がどうしようもなく好きなのだ。
 たったそれだけの、単純な事実を直視することがどれだけ難しいことなのか。

「で、悩み事ってのは事実だろう?何に悩んでんの?」
「どうしても言わないとだめっすか?」
「先輩命令だ」

 今ここで言うべきだろうか。でも、言えば気持ち悪がられるかもしれない。しかし、宮地さんを誤魔化せるだけの別の悩みも特にない。

「笑わないでくださいよ」
「笑うか、馬鹿」
「今、好きな人がいるんですけど、そのことで頭が一杯なんすよ」

 結局、悩みを打ち明けることにした。だが、詳しくは言わない。きっと勝手に、好きな人は異性だと思ってくれるだろうと踏んだ。嘘は言っていない。好きな人の事で悩んでいるのは事実だ。
 宮地さんは笑わなかった。そして、そのことを分かっていたかのように頷いた。そして、

「それ、緑間のことだろ」

 血の気が引くのが分かった。もう終わりだ、知られてしまっていたからには、ここにいることはできない。目の前が真っ暗になった。自分は今、立っているのかも分からない。何も聞こえない。何も聞きたくない。何も見たくない。今すぐ消えてしまいたい。

「おい、馬鹿!しっかりしろ!轢くぞ!」

 思い切り頬を打たれたような気がした。ジンジンとした痛みが、現実感を呼び覚ます。
 すぐ目の前に宮地さんの顔があった。心配そうに、焦ったような表情をしている。宮地さんの両腕は自分の両肩に掛かっている。適度な重さと、自分の左肩に置かれた宮地さんの右腕から、震えが伝わってきた。
 この手で打たれたのか。
 こみ上げてきたのは怒りではなく、涙だった。自分でも予想していなかったことに、慌てて笑顔で取り繕おうとするも、笑おうとすることでさらに涙が誘われる。涙は止まることなくひたすらにボロボロと零れ続け、まともに呼吸することもままならない。
 人前でこれほどまでに泣いたのはいつぶりだろうか。高校生にもなって泣くなんて、と冷静な自分は言っているが、本能の自分は涙を止める術を知らない。それは宮地さんも同じようで、どうしたら良いのか分からず、固まったままおろおろしていた。

「……すい、ません。じ、ぶん、でも、止め方、が、わからな、くて」
「お、おう。ゆっくりでいいから、な」

 涙で声がつかえてしまう。袖で涙を拭い、何度か深呼吸を繰り返すと、呼吸と気分が少し落ち着いた。まだ涙は止まらないが、幾分かましだ。
 宮地さんに目を合わすと、少しほっとしたように笑みを見せた。

「悪かった。急に言うことじゃなかった」

 律儀に頭を下げて謝罪をしてきた。確かに、宮地さんの言葉が引き金になったことは間違いないが、ここまで動揺することは自分自身でも全く予想し得なかったことだ。

「宮地さんが謝ることじゃないです。俺も自分でびっくりしてますし」

 涙声ながらも明るい、いつもの調子に整える。

「だから、気にしないでください。俺は、大丈夫なんで」

 大丈夫なんで。なにが大丈夫なのものか。今ここで笑おうとしているだけで精一杯だ。本当なら、このまま誰も自分のことを知らないところに逃げたい。自分のことを知っている彼らの記憶から自分の事を消したい。墓場まで持って行こうと思っていた秘密を知られたからには、もうここには居たくない。

「何が大丈夫だぁ?泣き止んでない奴が言うな、んなこと」

 そう思っていたのに。宮地さんはいつもの調子で、そんな優しいことを言う。軽蔑している様子もなく、いつもより怒気に迫力がない以外は、これまでの高尾和成に接していたときと同じ宮地清志だった。

「じゃあ、大丈夫じゃないです。全部、宮地さんのせいで、全然大丈夫なんかじゃないです」
「言うなぁ、ガキが」

 お互いに顔を見合わすと、自然に口角が上がっていく。上出来だ、と宮地さんは小さくつぶやいた。
 宮地さんは、彼は自分が想像している反応をしないかもしれない。自分が好きな宮地清志を少し信用してみようと、彼の顔を見るとそう思えた。

「俺のこと、軽蔑とかしないんすか?男が好きなんですよ?」
「軽蔑なんてしねえよ。別に誰が好きでもいいんじゃねえのか?」
 まあ、あの堅物を選ぶ心理は理解できねえけど。

 きっとこの人は、言葉通りに本当にそう思っているのだろう。異性が好きだろうが、同性が好きだろうが、彼の中では些事なのかもしれない。人を好きになることに、制限などないと、肯定された気がした。

「まあ、宮地さんもこう見えてアイドル好きですしね」
「だから、お前は一言余計なんだよ」
「すいません、性分なもんで。でも、いつから気が付いていたんですか?」

 誰にもバレないように、しっかりと隠していたはずなのに。この人は本当によく人を見ている。一日にたったの二時間弱しか知らないにも関わらず気付くとは人の機微に敏い人だ。

「ただの偶然だよ。お前、あいつとよく居残りしてるだろ?たまたま忘れ物があって取りに帰ったとき、緑間のシュートを真っ直ぐ見つめてるお前が見えたんだよ。そのときの顔が、相棒に向ける表情じゃなかったから、なんとなく察した」
「全力で隠してるつもりだったんすけどね」
「俺以外には全然バレてねえよ。俺だって、普段のお前からは全く気付かねえし、注意して見て、やっと気付くかどうか。よくやってるよ」

 そう言って、宮地さんは優しく頭を小突く。
 自分は、よくやってるのか。頑張っているのか。同情ではなく、ただありのままの事実を受け止めて、そして認めてくれる。ただそれだけのことがすごく嬉しかった。やはり自分は、宮地さんが好きだ。物事をニュートラルに見ることが出来る、信頼の置ける人だ。

「けど、さっきの話題の切り出しは配慮が足りなかった。すまん」

 そして、自分の非を正しく認められる人だ。

「もう本当に大丈夫なんで、謝らないでください」
「別にお前を傷つける気があるわけじゃない。一人で苦しむ姿を先輩として放っておけなかっただけだ。ただの俺のエゴだ」
「知ってます。だから、今度は俺の共犯者として、相談でもなんでも乗ってくれるつもりなんすよね?」
「そこまでは言ってねえぞ!」

 誰もいない部室に笑い声が響く。ここまで笑顔になれたのはいつぶりだろうか。
 そのとき以降、すぐにとはいかないが、少しずつ緑間真太郎を好きでいる自分を好きになっていった。誰か一人でも自分のことを誤解せずに居てくれることが、どれだけ心地よいのか。それだけで、緑間真太郎がどうしようもないほど好きだという、どこまでも単純な事実を受け止められる。宮地さんには今でも感謝しかない。
 あれから一年。今は身近に宮地さんのような存在は居ない。しかし、今も隣に居る相棒への思慕は自分の中で大切にしまっていられる。自分を責めるようなことはない。

「真ちゃん、やっぱ手袋使えよ」

 無理矢理に緑間のポケットに手袋を突っ込む。今はただ、こいつに相棒と認められていることで十分だと思っている。お互いに今の関係性が丁度いいと言い聞かせている。どこまでも鈍い相棒は、きっとはっきりと言葉にしなければ自分の気持ちに気付くことは一生ないだろう。だから、あえて言葉にしない。今の関係性を崩したくはない。

「しつこいのだよ」

 そう言いながらも、寒かったのだろう、手袋を嵌める君。
 外気に触れている部分が赤く染まっている君。
 真っ直ぐで癖がない髪を揺らしている君。
 素直になりきれない、でも正直な君。
 どんな姿の君も、どうしようもなく愛おしい。
 けれど、時々思うのだ。もしも、自分が化け物だったら、と。人間ではない、他の人とは全く違う存在であったら、と。
 だったら、自分は狼人間になりたかった。理性の外れたそのままで、君に喰らいついて、君を自分のものにしたいと思ってしまう。自分のエゴで君を壊したい。それが出来れば、どれほど楽だろうか。しかし、自分は理性を持って君を愛したい。君の幸せを願いたい。
 だから、自分は狼人間になりたかった。

 あと数日で満月だ。
 臆病な狼が尻尾を出す。
 だけど今は食べないよ。いつか本能が勝るその時まで、自分はまだ人間だから。


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